サムライの珈琲とストーブ~#3 『露米会社』とレザノフ使節の派遣
3.『露米会社』とレザノフ
ラクスマン使節の蝦夷地・根室への来航から12年後の1804年9月6日(文化元)、皇帝アレクサンドル1世の侍従長(上級侍従)でロシアの国策会社「露米会社」の代表取締役であるニコライ・レザノフ(1764~1807)は、エトニア出身のロシア海軍提督クルーゼンシュテルン(1770~1846)の世界一周の計画(1803~1806年)に便乗し、仙台の「若宮丸」の漂流民である津太夫ら4人を連れてロシア政府による第2回目の使節として長崎に「信牌」をもってナジェージダ号(日本語訳は希望)で通商を結ぶために来航します。
その後、使節団は、1805年3月19日(文化2)まで長崎に滞在することになります。
■『露米会社』の設立
1784年、欧州ロシア中央部のクルスク出身のグレゴリー・シェリホフがアラスカ半島東南のコディアック島に商会を設けロシアの植民地を築きます。
シェリホフは、数多いシベリアの商人たちの中で最も有力な存在でした。
彼は、1782年よりバイカル湖に近いイルクーツクで毛皮商を営んだいました。
1784年、シェリホフは、ゴリコフ兄弟と提携して商会を設立します。
彼らは、皇帝に対し西欧諸国の「東インド会社」に相当するような特許会社の設立を申請します。
シェリホフは、イルクーツクでの毛皮商社の過当競争の状況を無意味だと思っていました。
60余社がひしめきあって、各々、森や海にハンターを派遣しては競争している状態だったからです。
シェリホフは、大同団結すれば、大きな船を造ることもできる、船員の獲得も容易になると考えます。
シェリホフは、国家を引きづり込み、その合同会社を国策会社として、皇帝にも株を買ってもらい、ロシア国内の地方の港を使用して海軍の援助も得られるようにと考えるのです。
この時のロシア皇帝は、女帝エカテリーナ2世(1729~1796)でした。
女帝エカテリーナは、シェリホフの考えに関心をもち、側近官僚のニコライ・レザノフをイルクーツクへ派遣してシェリホフへ接触させます。
当時、レザノフは、ときおり、特別依頼官吏として女帝の依頼を遂行をするようになっていました。
レザノフとシェリホフは、互いに意気投合して親しくなります。そしてレザノフは、シェリホフの娘と恋愛し結婚してシェリホフ一家の一員となるのです。
しかし、結局、エカテリーナは、広大な地域の権益の独占に反対するとともに、将来、アメリカの独立のような事態が生じることを恐れて、なかなか許可を与えませんでした。
彼らの念願が叶うのは、エカテリーナの死後(1796年死亡)で、その時には、シェリホフ(1795年)も、この世にはいませんでした。
シェリホフや女帝エカテリーナの死亡後、イルクーツクの毛皮業界は、戦国時代に入り、お互いに足を引っ張りあい、更には、北太平洋での独占的な獲得権を得ようと合併が行われます。
そのような状況下の1798年、シェリホフ=ゴルコフ商会の他にイルクーツクなどの商人たちが合併して「合同アメリカ会社」が設立され、翌年1799年7月、組織変更が行われ皇帝パーヴェル1世の勅令により『露米会社』となります。
同社は、このあと60年間に渡って北太平洋で絶大な権力をふるうようになるのです。
『露米会社』の業績は良くて、レザノフのススメによって貴族や政府要人の中にも株を買う者が増えてきて、レザノフの工作は、やり易くなり、『露米会社』における、彼の存在は、増々、重くなっていくのです。
しかし、当時、『露米会社』を廃すべし、との意見も存在していました。
『露米会社』の人間が原住民を残忍なやり方で酷使しているという噂がサンクト・ペテルブルクにまで聞こえてきた為で、皇帝パーベル1世までも、その噂を信じるようになってきていたのです。
しかし、皇帝パーベル1世が謀殺(1801年)されて、皇帝アレクサンドル1世(1777~1825)が即位すると、レザノフは、皇帝をどのように説得したかは不明ですが、『露米会社』は、ロシア国家の手厚い保護を受けるようになったのです。
また、同時に多くの特権を与えられることになります。
『露米会社』の本社は、イルクーツクから首都サンクト・ペテルブルクへ移されます。地方の会社から国策を遂行する特許会社になったので当然のことと言えます。レザノフは、同社の全権取引交渉人の役職に就きます。
会社の株価の人気も上々で、皇帝アレクサンドル1世やその他の皇族、有力な貴族たちも以前にも増して争って株主になったのです。
■レザノフとクルーゼンシュテルンの確執
レザノフは、”日本に国交を開かせ、ロシアとの交易をさせるべく皇帝の大使を派遣させましょう"と工作します。
この案がロシア皇帝の廷臣の間で持ち上がり、皇帝アレクサンドル1世は裁可します。
また、当時、一佐官にすぎなかったクルーゼンシュテルンも上司を通じて上申します。
彼は、英国留学の経験もあり英国の学問、技術、さらには思考法まで身につけ、経済にもあかるい人物でした。当時、水路学、地理学、航海学上での世界的権威であったのです。
クルーゼンシュテルン案(上申案)が、レザノフ案と決定的に違うのは、日本の存在が重要視されていないことです。
彼は、鎖国をしている日本を無理やりに開国を迫り、紛争を起こすよりも、中国(広東)に視線を移すべきとしました。
彼は、日本について、じかに手を触れず、南千島のウルップ島の旧植民地を再興し、ここからアイヌ人を用い、島伝いに日本の食料を入手する。
その食糧によって慢性的な飢餓状態にあるカムチャッカ半島やオホーツクのロシア人を食べさせていくといものでした。
皇帝と閣僚会議は、このクルーゼンシュテルン案を魅力的だと感じ、それを受け入れることにしました。
さらに、そのための世界周航の準備命令を出します。これは、ロシア人による最初の周航でした。
その周航の指揮官には、当然ながらクルーゼンシュテルンが選任されました。
しかし、彼の大規模な交易案は、途中で否定されてしまいます。やはり、日本の門戸を開けさせようという方向性に変わるのです。
これは、レザノフの裏工作の結果とされています。
だが、クルーゼンシュテルンの世界周航だけは、残されますが、日本に対する皇帝の特使を乗せていくことになります。
その特使こそ、誰あろうレザノフだったのです。
クルーゼンシュテルンにすれば、自分の提案が葬られたばかりか、心良く思っていない嫌いな『露米会社』の案(レザノフ案)が採用され、しかも自分の案をつぶした裏工作人であり、『露米会社』の代表幹部であるレザノフを”皇帝の特使”として乗船させていくのです。
彼は、とても不愉快な思いだったと考えます。
彼は、レザノフをロシアの国益を代表する者ではない、政治的工作で”特使”という肩書を得た、自分(露米会社)の利益のみを得ようとしている人物であると評価していたに違いありません。
航海中、二人は、人間関係で対立することになります。
■遣日使節の出発
皇帝アレクサンドル1世は、ニコライ・レザノフを遣日特派大使と遠征隊の総指揮官とし、クルーゼンシュテルンを司令官兼ナジェージダ号の艦長に任命します。
1803年8月ナジェージダ号は、国書と日本への進物(贈り物)を携えて遣日使節(ロシア全権大使)ニコライ・レザノフと日本に送還する仙台・石巻の若宮丸漂流民津太夫ら4名や学者らを乗せてクロンシュタットを僚船ネヴァ号(372㌧、砲16門艦載、リシャンスキー船長)と伴に出航します。
使節団がロシアを出発する1ヵ月前に、皇帝アレクサンドル1世の命により使節としての威信を高めるためにレザノフに、聖アンナ一級勲章が下賜され、宮廷侍従(上級侍従)の称号が与えられました。
航海の目的は、清、日本との交易開始、南米の交易拡大、カリフォルニアの植民地化の事前調査でした。
2隻は、デンマーク、イギリス、カナリア諸島、ブラジル、南米最南端のホーン岬をまわり、南太平洋へと進んでいきます。ハワイに寄港して、ここでアラスカに向かうネヴァ号と一時的に別れています
この航海で仙台・石巻の漂流民ら4名は、はからずも世界一周をした最初の日本人となるのです。
1804年7月、カムチャッカ半島のペトロパブロフスク港に到着し、約1ヶ月間ほど諸準備を整えたのちに、同港を出発して日本へ向かいます。
1804年(文化元)9月6日、ナジェージダ号は、長崎港に到着するのです。
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