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北の海の航跡をたどる~『稚泊航路』#10 稚内築港工事 第2期
プロローグ
第2期の稚内港の築港工事の重点は、石炭移出、樺太・千島などとの連絡のための基本施設を整備することにありました。
この計画によると第1期における残った工事を継続して、その完了を1933年(昭和8)と予定していましたが、数回にわたる計画変更によって1935年(昭和10)までの期間を必要としました。
その後は、国、町、民間の手によって終戦後まで工事が続けられ、いくつかの船入澗が完成しました。
『第2期 稚内築港工事』
築港計画:1927年(昭和2)~1946年(昭和21)
第2期工事で特筆すべき出来事は、東洋一を誇る屋蓋防波堤(北防波堤ドーム/半アーチ式屋根付ドーム)が登場したことです。
これは、当時、形状が奇抜で規模が大きかったばかりでなく、技術的にも新境地を開いたもので”防波堤の革命”とさえ称されたようです。
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世界でも類をみない工法
①防波庇基礎杭打込み
工事は、1931年(昭和6)4月、予定通りに始まります。
夏には、杭打ちに入りました。打設するコンクリート製の杭は、1本の柱に10本ずつ全部で700本(柱が70本あるので)。
当時、最新鋭の4.5㌧「マキヤナンテリー製のスチームハンマー」が活躍しました。
当時、丸い柱を稚内では作ることができず、基礎固めには、六角柱を使用しています。
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②移動式型枠工法
ドーム部の施工には、現場で開発された移動式の型枠が導入されました。
幅12mの四分の一円形の型枠2基が作られ、工事の進捗に合わせて、それらを移動させながら施工が進められました。
当時、これは世界でも類をみない工法でした。
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稚内港北防波堤ドーム
設計は、北海道帝国大学(現 北海道大学)を卒業して3年目の若い技師・土谷実(当時26歳)に所属していた稚内築港事務所長が命じたものです。
コンクリート技術を学んでいた土谷技師は、防波堤の強度計算や模型製作、実験設計をわずか2ヵ月で仕上げています。
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北防波堤ドームは、第2期計画の中で北防波堤の防波護岸として計画されたもので、当初は高さ5.5mの胸壁を建設することになっていました。
しかし、北防波堤に併設する形で建設中の樺太航路の貨客発着場が同防波堤を飛び越える波と強風により、しばしば被害を受ける状態にあったため、この連絡船係船岸壁に建設が予定されていた道路、鉄道(線路)および貨物取扱場に対する安全対策の方法を多岐にわたり検討した結果、ドーム型で屋根を施した防波護岸が研究開発されたのです。
最盛期の港づくり
築港工事は、1日延べ150人が働いていました。
休みは、月1回の日曜日だけでした。
その他、お盆、お祭り、四大節だけが特別な休日で夏は、朝6時から夕方5時まで、10月は、朝7時から夕方5時まで働きづめの状態だったようです。
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1934年(昭和9)には、延べ6799~7000人が働いており、女性もこのうち625人いました。
※四大節=①四方節(1月1日)②紀元節(2月11日)③天長節(4月29日)
④明治節(11月3日)
防波堤(北防波堤ドーム)は、1931年(昭和6)に着工、5年の歳月を経て1936年(昭和11)に完成します。
ドームの総延長は、427m、そのうち255mは、稚内築港事務所の直営により、残り172mは、鉄道省の委託により施工されました。
高さは、13.6m、幅15.2m、柱は、約6m間隔で70本が構築されました。
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エピローグ
1937年(昭和12)より防波堤内への線路延長敷設工事(約850m)が始まり、これを受けて、1938年(昭和13)12月11日の『稚内桟橋駅』開業へとつながり、ドーム内は、貨客の連絡場所として天候に左右されない北の玄関口施設が完成します。
1945年(昭和20)8月まで、その役割を果たすことになりました。
2001年(平成13)北防波堤ドームは、「北海道遺産」に指定され、さらに2003年(平成15)土木学会選奨土木遺産にも選定されました。
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現在、北防波堤ドームは、古代ローマ建築を思わせる円柱とアーチ型の回廊をもち、世界的にも貴重な港湾構造物として稚内のシンボルとなっています。
参考・引用文献
・「稚内駅・稚泊航路 その歴史と変遷」 大橋幸男 著
・「サハリン文化の発信と交流促進による都市観光推進調査報告書」
・「稚泊連絡船史」 青函船舶鉄道管理局 発行
・「風土記 稚内百年史」 野中長平 著