鳥取県からの北海道移住 #4~鳥取県人の利尻島移住①
北海道の北端に浮かぶ、ふたつの島が利尻島と礼文島。山の島と呼ばれる利尻島、丘の島と呼ばれる礼文島。それぞれに別の顔をもつ2つの島。
鳥取からの移住についても全く対照的な姿をみせる。
利尻島には、因幡衆と呼ばれる多くの鳥取県人が移住したが、礼文島では鳥取からの移住がほとんど確認されていない。
いまの利尻島
利尻島は、高い島を意味するアイヌ語「リー・シリ」を語源にもつ。
その名の通り、”海上の目印となる高いところ”であり、いにしえの昔より北の海のランドマークとして人々が目指した天空の島である。
利尻島は、島そのものが利尻山(標高1721m)であるといっていい。
明治、大正時代、利尻島へ移住した因幡衆たちは、利尻山の姿をみて遠い故郷の山~大山(伯耆大山)を思い出したに違いない。
利尻山は、最北の百名山として深田久弥の名著「日本百名山」でも巻頭で取り上げられ『島全体が一つの頂点に引きしぼられて天に向かっている。こんなみごとな海上の山は利尻岳だけである』と称賛されている。
利尻山は、円錐形の特徴を持つコニーデ型の休火山で、その美しい山容は『利尻富士』として地元民に愛されている。
山麓は、周囲63kmの裾野となって針葉樹を中心とする豊かな森林帯が海岸線まで広がっている。
島の外周は車を使えば、約1時間半のドライブで回りきることができる。
山(島民は、こう呼ぶ)は、6月半ばに、ようやく雪解けを迎え、高山植物なども咲き始めるが、9月初旬には冠雪してしまうため、島の夏は、とても短いのである。
利尻山は、海抜0メートルからアプローチできる標高1721mの山という珍しさで登山愛好家たちを魅了している。
利尻島には、礼文島も同じく、大型哺乳類や爬虫類は生息していない。
つまり、ヒグマやヘビはいないのである。安心して高山植物や野鳥のさえずりなどを満喫できる。
また、利尻礼文には、高山植物の島固有種が豊富である。島の名を頭に付ける花だけでも「レブンアツモリソウ」や「リシリヒナゲシ」をはじめ20種近くにおよぶ。
利尻島北部には、約25kmのサイクリングロードも整備されており自転車を持ち込んで島を体感するのもいい。毎年8月下旬、「利尻一周ふれあい
サイクリング」が実施されている。
走るごとに山容を変える利尻山を遠望し、蒼い海を眺めながらのサイクリングは、利尻島でしか味わえない感動的な体験となることは間違いない。
現在の利尻島には、利尻富士町(人口 2255人/2022年3月末現在)、利尻町(人口 1903人/2022年3月末現在)の2町がある。
しかし、1878年(明治11)当時、利尻島は、石崎(現 利尻富士町)、鬼脇(現 利尻富士町)、仙法志(現 利尻町)、沓形(現 利尻町)本泊(現 利尻富士町)の6村に分かれていた。
前述したように、現在は、島の東側が利尻富士町、西側が利尻町に分かれ、役場もそれぞれ鴛泊と沓形に置かれている。
日本最北端の街 稚内と利尻島・礼文島を結ぶフェリー(ハートランドフェリー/本社 札幌)は通年運航で鴛泊港を使用している。
沓形港は利尻島と礼文島(香深港)間を6月~9月の季節運航の港として利用されている。
利尻空港も島の北部にあり「北海道エアシステム」(HAC)は利尻~札幌(丘珠空港)間を通年運航。「全日本空輸」(ANA)は、夏季のみ利尻~新千歳空港間を結んでいる。
『追鰊』(おいにしん)
利尻島の漁場は、江戸時代末の安政年間に開かれている。
漁獲高の少なかった頃はアイヌの人々の労働力で間に合っていたが漁網や漁船などが改良されてくると水揚げ量も増大した。
そこで東北地方などの漁師たちが住む場所を離れ蝦夷地(北海道)へニシン漁に出かけ、漁獲量の約2割前後をその場所請負人に収めることと引き換えに自由にニシン漁を行った。これを「追鰊」と言った。
利尻島でもみられ和人が定住する最初の要因になったともいえる。
数奇な島~利尻島
1848年(嘉永元年)アメリカ先住民族の血をひくアメリカ人の青年ラナルド・マクドナルド(1824~1894)が利尻島に渡り、後に長崎で日本最初の英語教師となる。その教え子(森山栄之助)が
ペリー来航時に通訳として活躍する。
利尻島は、”数奇な島”である。しかし、それを知る人はすくない。
幕末から明治時代の初め、礼文島と並ぶ最北の島の管轄権は、めまぐるしく変わった(松前藩~幕府~松前藩~幕府~秋田藩~水戸藩・・・)。
そして、アイヌ民族数十人が住むだけの島に、1000人規模の人間が毎年、漁や警備に押し寄せては帰っていった。
利尻島へ
明治~大正期、利尻島周辺海域の漁場でニシン(鰊)漁が隆盛を極めた。
人々は、当時、最盛期だった、これらニシン漁やタラ(鱈)漁などに従事すべく東北・北陸地方を始めとして多くの県より移住した。
しかし、彼らは、始めから定住が目的ではなく、主に出稼ぎが目的。
漁場を利尻島に求め、漁期は利尻島に住み、冬期は厳しい島の冬を避け、故郷に帰るといった生活を繰り返していた。
移住者の中には、農家を継げない二男、三男や訳ありの人間がすがる思いで利尻島に集い、住み着いた人間もいたと伝わっている。
『因幡衆』
鳥取県人の利尻島への移住が本格化するのは、1887年(明治20)頃からである。
彼らは、『因幡衆』と呼ばれ、当初は、利尻島の各地域に分散して住んでいたが、やがて、前述した6村の内、鬼脇、仙法志、沓形、鴛泊の4村に住むようになる。
因幡衆たちも、他県からの移住者と同様に、最初は出稼ぎ目的であり、漁期が終われば、又は、数年働いて”一旗あげたら”鳥取に「千両箱を担いで帰る」という意気込みのもとでの移住であった。
明治20~30年代前半の利尻島移住
初期の移住状況に関する詳しい資料は、あまりないようだ。
1892年(明治25)の資料(登記目録)によると利尻島全域の164戸中、鳥取県からは6戸の移住者が確認されている。
彼らの移住のきっかけ(動機)は、様々である。
この中には、当時の鳥取県令 山田信道の道路拡張政策により道路工事を請け負っていた者、小樽で井戸掘りに従事していた者、また、鳥取からオホーツク海まで漁に出かけて行き、そのまま住み着いた者などが含まれている。
最初の利尻島への移住は、最初から漁業目的で北海道へ渡った者ばかりでなく、北海道各地に移住して様々な産業に従事して、その後、成功話を聞いて、利尻島へ再移住し、漁業に携わったという例も数多いという。
利尻島で成功を収めた人々は、成功話を持って故郷の鳥取に帰る。
その話を聞いて、家族あるいは、一族郎党を引き連れての移住が開始される。
資料によると、利尻島への移住のピークは、1897年(明治30)頃である。
これは、北海道におけるニシン漁、タラ漁の最盛期とも一致する。
利尻島では、主にニシン漁とニシン粕づくりに携わっており、3~5月の漁期には、浜は人であふれていたという。
当時は、ニシン粕のほか、波で打ち上げられたニシンの卵(ホマ)を炊いて作る子粕肥料や粕炊きに使用する薪や桶を売るだけでも充分、儲けがあったという。
「ニシン粕(鰊粕)」は、特に西日本で米、綿、みかん、藍など農産物の生産促進を図る魚肥として重宝されたといいます。
彼らの1年間の暮らしをみると、
・春(3~5月) ニシン漁やホマ拾い
・夏~秋(6~10月) 利尻昆布や天草採り
・冬(1~2月) エゾアワビやフノリ採り
などで生活をしていた。
彼ら(因幡衆)は、漁期以外は比較的のんびりした生活を送っていた。
各浜のニシン番屋の近くには、井戸が掘られ、日常生活に欠かせない飲料水は、班ごとに、これを利用していようである。
その中で鬼脇村へ移住した人々の鳥取県内の出身地を資料で確認すると青谷村・酒津村・末垣村・賀露村などからの移住者が多い。
これらは、いずれも鳥取県東部地域の沿岸部に位置している漁村である。
しかし、移住者は、漁民ばかりではなかった。
中には、八頭郡虫井村(現 智頭町)の出身者もみられる。ここは、中国山地の山間部に位置している。
また、仙法志長浜へ移住した人々の多くは鳥取県甲山(現 里仁)出身であるが、これも、ほとんどが農民である。
1926年(大正15)の資料(鬼脇村移住者状況調)には、移住者の氏名とともに利尻島での職業も記されている。
この鳥取県からの移住者52戸の内訳は、
・漁業 61.5%
・製造業、販売業 13.5%
・日雇業 7.7%
・海産商、会社員 7.7%
・その他(石工、陶器荒物商、役人、薬種業、土木請負、農業)11.5%
鳥取県からの漁村出身者は、そのほとんどが漁業に従事しており、漁村以外の出身者が主に製造業、販売業、日雇業に携わっている。
大部分の人は、”始めは、1年、長くても3~5年程度で、故郷鳥取に帰る予定だったという。
しかし、利尻島で成功し、「もう1年、もう1年といるうち」に鳥取に帰らず、利尻島での生活を選択するようになった。
彼らにとって”北辺の地”でも”住めば都”ということか。
明治30年代後半以降の移住と『カニの親方』~鬼脇村
ニシン漁は、明治30年代後半に全北海道で年間水揚げ量70万〜100万トンとピークを迎える。
その後、豊凶を繰り返し、徐々に衰退をみせる。
大正から昭和にかけて漁獲高も減少し、漁場も北海道北部の宗谷から樺太(現 サハリン)へと遠のいていった。
これに伴い、移住の目的も大きな変化をみせることになる。
このような状況下の鬼脇村において、ニシン漁が衰退する中で明治30年代後半に移住者の中で新たな事業を興す者が現れた。
その後の近代日本における輸出品の1つとなる『カニ缶詰産業』の始業である。
その中で、特に、先駆的役割を果たしたのが因幡衆の一人であり、鳥取県伏野村出身の田中実蔵である。
この田中実蔵の創業後、鬼脇村では、ニシンの不漁と相まってカニ缶詰工場が増え、1907年(明治40)には、鬼脇村で17カ所の工場が創業を始め、利尻島における新たな産業として定着していく。
利尻富士町の資料(大正12年 宗谷支庁移住成功者調査)によると利尻島における5名の成功者の名前が記載されている。
その中に鳥取県出身者の3名が含まれている。気高郡伏野村出身の田中実蔵、中川仲蔵、鳥取市吉方村出身の池内善太郎である。
彼らは、『カニの親方』と呼ばれ、アメリカ、ハワイ、イギリス等にも販路を拡大し成功を収めた。
このような状況下で、明治30年代後半からは、カニの親方を頼って移住する者が増加した。
1918年(大正7)の鬼脇村の戸数調査によると鬼脇村では全国30都道府県から合計890戸の移住者が生活していたが、この中で鳥取出身者は、90戸と全体の約1割を占めている。
これは、出身地別の数では、青森・秋田・北海道に次いで全国で4番目に多い数である。
東北・北陸からの移住者が多数を占める中で、西日本の鳥取県からの移住者が北陸出身者よりも多い、という事実は注目すべきことである。
その背景にあるのは、同郷出身者のカニ缶詰産業の創始・成功があり、その後の鳥取県出身者の利尻島移住に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。
鳥取県人の利尻島移住の概要と特徴
利尻島への移住については、明治20年頃から開始されるが、当初は出稼ぎ的な移住を目的としていた。
その移住形態は、明治20~30年代前半は、ニシン、タラ漁の成功者、30年代後半は、カニ缶詰の成功者という鳥取県出身の先移住者や漁業・事業等の成功者たちがいて彼らが中心となり、彼らを頼って(あるいは彼らが引き連れて)家族・一族単位で移住するという”呼び寄せ”的な形での移住が多くみられた。
したがって、あくまで”私的”性格の強いものであり、士族移住や屯田兵のように何か制度的なものがあって移住するという形でもなければ、開墾奨励・団体移住奨励などに見られるような政府や道庁の保護があって移住するという形態でもない。
逆に言えば、私的性格が強いからこそ、同郷の移住者・成功者を頼って行かねばならなかった。
それが島内4カ所に鳥取県出身者同士で集まって暮らした理由と思われる。
”未開の北方の地”に移住する人々にとって、同郷の移住者・成功者の存在が大きな精神的支えになったことは、紛れもない事実だと思う。
このような呼び寄せ的な私的性格の強い移住は利尻島に限らず、他の北海道沿岸漁村部への移住やあるいは漁業に限らず内陸部各地にみられる農民の
移住においても、当時の最も一般的な形として北海道全体で数多く見られたものと推察される。
私の高祖父一家も北海道北部の枝幸村(現 枝幸町)へ移住する際は同郷人を頼って鳥取から移住したのであろうか?残念ながら、まだ、その理由は
調べきれていない。
利尻島の例にも見られるように、多くの場合、農業(開墾)移住と異なり既に漁場が開かれており、また、ニシン漁、ニシン粕の最盛期でもあったため、比較的早い段階で生活に余裕ができたのは確かで
あるようだ。
今後、地域的な状況やニシン漁やカニ缶詰などについて調べてみたい。
参考・引用文献
■小山富見男・岡村義彦『鳥取市史研究 第19号~明治・大正期の鳥取県の北海道移住』鳥取市 鳥取市史編さん委員会、平成10年
■錦織勤・池内敏『街道の日本史37 鳥取・米子と隠岐 但馬・因幡・伯耆』吉川弘文館、平成17年
■伊藤康『鳥取県立公文書館 研究紀要 第4号 県人の北海道移住~分領支配・「規則」・農場』平成20年
■関秀志・桑原真人『北の生活文庫 第1巻 北海道民のなりたち』北海道新聞社、平成9年
■松田延夫『現代に残る 北海道の百年』読売新聞北海道支社、昭和50年
■榎本守恵『北海道の歴史』北海道新聞、昭和56年
■『移住と移民の歴史展・北海道~故郷 鳥取からの旅たち』鳥取市歴史博物館 平成15年
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