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利礼航路を支えたレジェンド船『第三利礼丸』

利礼航路がフェリー化する1970年(昭和45)前後において航路を支え続けた『第三利礼丸』。船からこぼれ落ちそうな位の観光客を運び続けた姿は当時の離島ブームを象徴しており安全航海に努めた連絡船といえる。
まさに”利礼航路を支えたレジェンド船”と呼ぶにふさわしい。また、1974年(昭和49)には、樺太(サハリン)への「北海道墓参団」を乗せホルムスク(日本名:真岡)まで航海した(戦後初のホルムスク訪問)

RIREMARU No.3
第三利礼丸
■総トン数 224.53トン
■馬力 450馬力
■旅客定員 164名
■就航 1964年(昭和39)
■改造 1968年(昭和43)
■退役 1981年(昭和56)4月23日
”離島ブーム”で多くの乗客を運ぶ「第三利礼丸」と「礼文丸」

1951年(昭和26)頃の稚内港。自転車をそのまま積み込もうとしている?
改造後の第三利礼丸か?
樺太墓参団の使用船としても活躍。1974年(昭和49)9月に稚内~ホルムスク(日本名:真岡)間において「北海道墓参団」19名を運んでいる。ホルムスクへは、戦後初の入港となった。
ドラム缶に燃料が入っていれば危険物だが連絡船に積載して運んだとは思えないが。。。
1975年(昭和50)稚内港からの出航風景と思われる。荷物甲板にも乗客があふれている様子に当時の離島ブームの盛り上がりを感じる
礼文島香深港に停泊中の第三利礼丸
若者で賑わう礼文島香深港
「アンノン族」?も目立つ稚内港
稚内港到着の様子/乗船客は大きなリュックを背負った若者たち。
左手の建物は稚泊航路時代の「稚内桟橋駅」。これが解体されるのは、1972年(昭和47)6月22日なので、それ以前の下船風景と思われる(離島ブームの頃である)。桟橋駅内部に通じる線路は、稚泊航路専用線である。

下船風景。稚内桟橋駅への線路が写っている写真は貴重である
稚内港の下船風景。船の旅客定員は、164名だが、どこにこれだけの乗客が乗っていたのだろうか?夏の旅客定員は、403名という記録が残っている
乗下船する人々で混雑する稚内港
出航風景と思われる。タラップ横に立っている「マリンガール」のカラー写真は珍しい
稚内到着直前の第三利礼丸
写真左側上部に稚内桟橋駅が写っていないので1973年以降の写真と思われる。また、線路上に貨車が停車している貴重な写真
利尻島ぺシ岬沖をゆく第三利礼丸
地元郵便局が発行した「ふみの日 ふるさと紹介」というカード。以前、イベントや記念日に郵便切手が貼られ、消印が押印された『初日カバー』が人気になったことがある。これも「第三利礼丸引退記念」の初日カバーなのか?

参考・引用文献
・ハートランドフェリー船舶表


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