鳥取県からの北海道移住 #7~因幡衆のカニ缶詰工場とその周辺地域の状況
タラバガニ漁業は、1904年(明治37)、利尻島鬼脇村で2~3の小規模な工場を持った業者がカニ漁を行ったのが始まりで保存も加工も出来ないので、カニ漁法は、缶詰工場と一体となって発達しました。
当時、カニは、沿岸近くまで生息して豊富であったので、鍋を火にかけてから浜に出てカニを捕らえてきたものだといわれています。
また、大正時代後期~昭和初め頃、稚内西海岸では、タラバガニは手掴み出来たという”都市伝説”も伝わっています。
また、タラ漁の網に引っ掛かって仕方がないので自宅に持って帰って、茹でて、屋根に干したり、流通ルートに乗らず、その大部分が捨てられていました。
ある時、利尻島へ大阪から来た行商人(薬売り?)が屋根に干してあるカニを見て、缶詰にして輸出したら?と勧め、ニシン漁の不漁もあり、それが、カニ缶詰を始めるキッカケとなったと言われています。
因幡衆のカニ缶詰工場とカニの親方
鳥取県出身の田中実蔵は、1904年(明治37)頃にカニ缶詰製造に着手します。工場の名前は、『田中缶詰製造所』。
その後、鬼脇では、缶詰工場が増加することになります。因幡衆の中でも、中川仲蔵、池内善太郎ら、成功を収める者が現れます。
彼らは、”カニの親方”などと呼ばれ、利尻島にいる同郷人を雇用したり、鳥取から働き手を呼び寄せたりしました。
「山と積まれた缶詰は、利尻富士より、なお高い」という缶詰づくりの詩が伝わっています。
カニ缶詰工場の乱立
1907年(明治40)には、鬼脇に小工場が17カ所も設立されました。
その分、競争も熾烈で、海上では、漁網の争奪、陸上では、漁夫・女工の争奪があって、生カニ価格と賃金の釣り上げにより、島は、好景気に沸きます。当時の郵便貯金高が日本一だったとも言われています。
『利尻缶詰会社㈱』の設立
ところが、漁法が拙劣のため、漁獲高が上がらず、その上、缶詰製品も粗悪で価格も低廉であったので、更には、カニの水揚げ量減少が追い打ちをかけ、瞬く間に工場は潰れ、渡辺藤作、中川仲蔵、田中実蔵、山田嘉四郎などの工場が残るだけとなりました。
1920年(大正9)9月、道庁の指導によって、7工場が合併して「利尻缶詰会社株式会社」が設立され、田中実蔵が初代社長に就任します。
また、同年12月、稚内のノシャップに稚内工場も建設されました。
カニ缶詰は、アメリカ、ハワイなどにも輸出し、高い評価を受け、同年には1万箱を輸出し、当時の金額にして45万円の売り上げを記録します。
利尻缶詰株の全盛期である1924年(大正13)には、発動機船12隻を持ち、年間約40万尾のカニを漁獲し、約15万箱を製造しています。
その後、カニの不漁が続き、地域内のカニ缶詰工場の合同合併が行われ、これを機に田中実蔵は、鳥取に引き上げます。
稚内におけるカニ缶詰工場
一方、稚内では、1909年(明治42)、河合惣士が抜海地区でカニ缶詰工場を設けて製造を行い、1911年(明治44)には、沢田住蔵が坂の下地区でカニ缶詰の製造を行いました。
当時、タラバガニは、日本海側に多く生息し、漁法は、「延網」か「礎突」でしたが、1916年(大正5)から「刺網」が許可されたので漁法も一新され、漁獲量も増加します。
この頃、缶詰製法は、昆布を缶の底に敷いて、カニ肉を詰め、かぶせ蓋でしたが、1917年(大正6)、刀根商会が稚内工場で初めて、巻詰式に
切り替えます。
刀根商会は、この年から操業を始めましたが、同工場所属の漁業者は、池田良太、米本春蔵(鳥取県出身?)、杉本重一、日浦政一、長長蔵、越川重太郎などで、この頃の船は、肩巾5尺の川崎船に4人乗り込んでいましたが、1919年(大正8)から、随時、動力船に切り替えられていきます。
刀根缶詰の創業当時は、工場への引き渡しは、カニ1尾7銭~10銭であったが、1920年(大正9)、「利尻缶詰会社株式会社」稚内工場が操業
するようになってからは、1尾14銭に引き上げられました。
川崎船は、1回の出漁で1隻当たり1000尾から1500尾の水揚げがあり、1晩に20000尾も持ち込まれて、工場では処理しきれず、沖止めすることも、しばしば、あったようです。
カニ動力船の先駆けは、刀根缶詰で1919年(大正8)、烏丸、弥生丸の二隻を所有していましたが、翌1920年(大正9)には、利尻缶詰でも稚内に動力船3隻を導入したので無動力船は太刀打ちできなくなり、これを契機に力のある業者は、動力船に切り替えっていきました。
当時のカニ漁業を利尻缶詰会社㈱にみると、1921年(大正10)、鬼脇工場の所属船は、川崎船42隻、動力船1隻、稚内工場は、川崎船12隻、
動力船3隻で両工場の漁獲高は、27万尾、缶詰生産は、1万箱でした。
翌1922年(大正11)には、鬼脇で4隻、稚内で2隻の動力船を増やし両工場で漁獲高30万尾、缶詰1万2000箱の生産をあげます。
ところが、1923年(大正12)の関東大震災による不況に続いて、昭和初期の世界的な経済恐慌によって輸出は不振に陥り、加えて、豊漁を続けていた近海のカニも枯渇して漁獲は低落しました。
1927年(昭和2)1月、タラバガニ漁業捕獲禁止区域が設定され日本海沿岸は1930年(昭和5)まで禁漁となりました。
この禁漁期間中は、満足な操業ができないので、ほとんどの缶詰工場経営者は、お手上げ状態となります。
ちなみに、稚内と利尻の当時の漁獲状況をみると1926年(大正15)には、45万6000貫の漁獲があったのに対し、禁漁が続けられていた1930年(昭和5)の水揚げは、わずか8万6000貫であったことをみても、カニ業者並びに缶詰工場経営者が、いかに深刻な状況であったかがうかがえます。
このカニ缶詰工場の不況時代に小樽の渡辺照平が各地のカニ缶詰会社の株を買い占めて、1927年(昭和2)「北海道漁業缶詰会社㈱」を設立し、
既設の稚内、鬼脇、枝幸、紋別、網走の工場を所有して、1930年(昭和5)カニ漁業の解禁と共に一斉に操業して、業績を上げ、一躍、カニ缶詰業界に名をなしました。
ところが、1938年(昭和13)「日本缶詰」に統合され、1943年(昭和18)には、企業整備によって「日魯漁業」に吸収され、稚内は、1948年(昭和23)まで、カニ缶詰は日魯漁業1社の独占状態になります。
カニ漁業は、元来、工場に従属して漁業権が与えられていたので、漁業者は工場以外に勝手に市場に売ることはできず、また、漁価も工場の決めた価格で決定されていました。
この制度に対して漁業者に漁業権を解放する運動が起こりましたが、漁業者は、着業に当たって工場から仕込みを受けるので、工場従属の絆は実質的には、断ち切ることはできませんでした。
1949年(昭和24)漁業制度の改革によって、カニ缶詰事業は、独占制が解除されたので、稚内では、日魯漁業の他に一挙に3社が設立されました。
この年の10月、「稚内漁業缶詰㈱」が設立されます。
また、同じ年、渡辺藤作が鬼脇の権利を復活して「山天産業缶詰㈱」を設立しました。
翌1950(昭和25)、全農食品缶詰が設立されたが、後に「林兼水産」に統合され、山天産業は、1953年(昭和28)「又一産業」に権利を
譲渡しました。
タラバガニ並びに毛ガニは、次第に資源も枯渇し、従来の漁獲も減少して漁業者も工場も不振に陥ります。
ところが、1961年(昭和36)、1962年(昭和37)にかけて「又一産業」が樺太(サハリン)東海岸に新漁場を発見し、1964年(昭和39)以降、タラバガニ漁船全船が、この海域に出漁するようになりました。
カニ漁業規則によって、メガニや仔ガニは、網に掛かっても海に放すことになっているが、刺網の場合、投網してから数日たって揚網するため、
ほとんどが死んでいる。
そのため、1967年(昭和42)から漁法は、「カニ篭」に切り替えられました。
カニ篭は、カニが生きたままになっているので、メガニや仔ガニを拾い分けて海に戻すことができ、また、漁獲したカニの鮮度も保持できるので有力が漁法となりました。
現在、利尻島に缶詰工場はありません。当時のカニ缶詰工場と”思われる”建物は確認できますが。。。
島では、10月から12月にかけて利尻昆布が茂る北の海で育った"毛ガニ”の水揚げがあります。
北の冬の味覚として”利尻毛ガニ”として通販で大人気商品だそうです。
参考・引用文献
・小山富見男・岡村義彦『鳥取市史研究 第19号~明治・大正期の鳥取県の北海道移住』鳥取市 鳥取市史編さん委員会、平成10年
・錦織勤・池内敏『街道の日本史37 鳥取・米子と隠岐 但馬・因幡・伯耆』吉川弘文館、平成17年
・伊藤康『鳥取県立公文書館 研究紀要 第4号 県人の北海道移住~分領支配・「規則」・農場』平成20年
・関秀志・桑原真人『北の生活文庫 第1巻 北海道民のなりたち』北海道新聞社、平成9年
・松田延夫『現代に残る 北海道の百年』読売新聞北海道支社、昭和50年
・榎本守恵『北海道の歴史』北海道新聞、昭和56年
・『移住と移民の歴史展・北海道~故郷 鳥取からの旅たち』鳥取市歴史博物館 平成15年
・野中長平『風土記 稚内百年史』昭和52年
・『別冊1億人の昭和史 日本植民地史 樺太』毎日新聞社、昭和53年