1968年(昭和43)8月31日に『おたる丸』の後を引き継いだ『新おたる丸』が新潟で竣工します。
島への初就航は、1968年(昭和43)9月6日。
その際、小樽港から当時の小樽市長が初就航を祝して乗船しています。歴代の小樽市長では初めての離島訪問でした。利尻、礼文は歓喜の渦に包まれたと記録にあります。
青物船(あおものぶね)
昭和40年代あたりまで稚内航路(稚内〜利礼間)の貨物は、日常雑貨が中心で、果物や野菜などの生鮮食料品は、小樽・利礼航路に積まれることが多かったのです。
島民は、船を『青物船』と呼びました。
余市町や仁木町のリンゴやブドウをはじめ、道内各地からの野菜は、小樽から船で利尻・礼文に運ばれたのです。当時、昆布と物々交換で果物や野菜を買う光景も珍しくなかったといいます。
夢を運ぶ航路
島の子供たちにとっても小樽・利礼航路は、夢を運ぶ航路でした。
小樽から船に乗って廉価なおもちゃや駄菓子を持ってくる商人が来島すると、いつも子供たちの人だかりができました。
刺激があまりなかった島の生活の中で、その時ばかりは、子供たちは、興奮したのでしょう。
稚内の子供が都会を感じる島の缶コーラ
個人的な思い出ですが、当時、私も小学生で稚内で暮らしていた。
時々、島へ行くと稚内にはなかった赤いコカコーラの缶(250ml)を数本購入して自宅で飲まないで大切に保管していたのを覚えています。
稚内では、350ml缶しか販売されていなかったと思います。赤く細いコーラ缶に、今思えば、都会への憧れを感じていたのかもしれません。
船と列車+フェリーの移動比較
1973年(昭和48)当時に発行されたガイドブックに利尻礼文観光(利尻登山)の交通案内が記載されており小樽から新おたる丸に乗船して島へ向かう方法と札幌から列車と稚内で連絡船に乗り継ぐ方法が提案されています。
とても興味深いので、要約してご紹介します。
ガイドから当時のアクセス方法を知ることができます。
列車+稚内・利礼航路を利用するよりも小樽港から新おたる丸に乗船する方が利尻礼文には、早く到着していた時代なのです。
礼文島沖で座礁
1976年(昭和51)12月、新おたる丸は乗客を2名を乗せて沓形港を出港。
しかし、おりからの猛吹雪で礼文島金田ノ岬沖で座礁します。
救助に向かった巡視船も近寄れない難所で離礁を断念せざるを得ませんでした。
参考・引用文献
・「なつかしい日本の汽船」
・Wikipedia
・「利尻、礼文両島の高山植物とその景観」 1974年発行