北の海の航跡をたどる〜『小樽・利尻礼文航路』 #9 航路開設108年の歴史に幕を引いた『第二宗谷丸』
1885年(明治18)、それまでの小樽〜増毛間の定期航路に補助航路として天売・焼尻島〜天塩〜鴛泊(利尻島)〜香深(礼文島)の航路が延長されます。これが『小樽・利尻礼文航路』の始まりです。
1970年代、離島ブームが起きた頃、小樽・利尻礼文航路も7月や8月に観光客で混雑した時期がありました。
小樽港を午後9時に出港する夜行便なので天候が良いと静かな夜の海にイカ釣漁船の漁り火が、コウコウと輝き、旅情をかき立てられたといいます。
また、船上から昇る朝日とその光を受けて水平線上に輝く利尻富士の威容は、この航路ならではのものでした。
貨物では、“段ボール1個でも運ぶ“というのが航路の強みの一つだったと言います。当時、稚内に店舗が無かったKFCのフライドチキン(のちに稚内にも店舗ができましたが現在はありません)や小樽の老舗菓子店のクリスマスケーキも運ばれたそうです。
航路は島民にとって“物を運ぶというより都会の生活の薫りを運んでくれるものという位置付けだったのでしょう。
そんな小樽・利尻礼文航路、この100年以上もの歴史ある航路が無くなろうとしていました。
北海商船フェリーは、カーフェリー第2船目となる『第一宗谷丸』を東日本海フェリー(現 ハートランドフェリー )より用船して運用していましたが、同船の船齢が当時、30年を超えていたこと、車両積載能力が乗用車17台であったこと(トラックであれば数台)また、旅客定員が440名ですが、小樽を夜に出港し船中泊するには、とても厳しい船内環境であったと思われます。
このような状況では、実績を回復することは、到底、困難であると判断したのではないか。
そこで、再度、東日本海フェリーより「1000㌧型フェリー」である『第二宗谷丸』(988㌧)を用船することを決めたと思います。
この「第二宗谷丸」で再度、輸送力の向上を目指しますが、赤字補填の大部分を占める「離島航路整備補助金」の削減により赤字を補填しきれず累積欠損が資本金の2倍に当たる2000万円に膨らんだこともあり1993年(平成5)10月に航路廃止の方針を打ち出し、11月に廃止が決定されます。
そして遂に1993年(平成5)12月29日の小樽港(中央埠頭)発便をもって108年続いた歴史ある航路は終わりを迎えたのです。
現在、小樽〜利尻島礼文島間に限定するならば商船三井クルーズ(株)の『にっぽん丸』(22,472㌧)が毎年、“にっぽん丸 飛んでクルーズ北海道“という船旅を提供しています。
2万トンを超える豪華客船が、108年の歴史を刻んだ小樽・利尻礼文航路の航跡をだどっています。