北の海の航跡をたどる〜『稚斗航路』#1 民間が開設した樺太航路
稚内本斗(現 ネベリスク)航路は、1924年(大正13)8月3日、北日本汽船が『鈴谷丸』(897㌧)を就航させ開設されます(航海時間7時間)
翌1925年(大正14)以降、樺太庁命令航路となります(1925年・大正14年4月1日)。
稚斗航路開設より2年前の1922年(大正11)11月、宗谷線(のちの北見線・天北線)が稚内まで開通し1925年(大正12)5月1日、稚内〜大泊(現 コルサコフ)には、稚泊航路が開設されます。
ゆうなれば、稚泊航路(鉄道省ー官)、稚斗航路(北日本汽船ー私)という棲み分けがされました。
稚泊航路は、樺太中部及び東海岸地方へ向かうには便利でしたが、樺太西海岸に対しては、豊原(現 ユジノサハリンスク)真岡(現 ホルムスク)間に樺太庁鉄道が全通しておらず(全通は、1928年・昭和3年9月3日)また、樺太島内の交通体系も整備されているとは言い難い状況でした。
それを解消しようと西海岸の要港であった本斗港へ稚内より航路を開設することは、大きな意義があると北日本汽船は会社として決断し航路開設を行なったといえます。
『鈴谷丸』
栄光の第一船となったのは、『鈴谷丸』(897㌧)。当初、『第一北海丸』という船名で建造されましたが北日本汽船が買収後、『鈴谷丸』と改名しました。
1937年(昭和12)4月、『樺太丸』に運航をバトンタッチした後は戦時中、輸送船として運航。
しかし、1943年(昭和18)6月、ニューギニア北方でアメリカ潜水艦の雷撃で沈没します。