利尻島コンシェルジュ/観光スポット #2 ぺシ岬
概要
『ぺシ岬』はアイヌ語で「シぺシ」。”大きな崖”という意味。
利尻島の玄関口・鴛泊(おしどまり)港にある標高93mの巨大な岩山(溶岩ドーム/安山岩)です。岩壁は、オオセグロカモメやウミウなどのコロニー(繁殖地)でもあります。バードウォッチングができる場所としても最適。
ぺシ岬は、別名「灯台山」。島民はこのように呼んでいます。
ぺシ岬は、遠くから見ると岩山全体がゴリラの後ろ姿に似ていることから「ゴリラ岩」とユニークな呼ばれ方もされています(個人的にはゴリラ岩よりキングコング岩の方がインパクトある呼び名だと思いますが。。。)
ぺシ岬にまつわるアイヌの伝説に「この岬に追い詰められた妖女の呪いで岩が割れ、この岩壁に巨人の顔が浮かび出た」という話があるそうです。
白い灯台(鴛泊灯台/北海道初の石造灯台)が建つ岬の頂上付近は展望台になっており、「一等三角点」(三角測量という測量法のために設置された点のこと。その位置や標石により示される。全国に970以上)があります。
中腹に広場がありベンチが設置されています。会津藩士の墓も置かれています。
頂上までは、急な坂道(遊歩道)を登ることになります。コースは2ルート。急な坂道を利用する場合は、頂上まで約20分。灯台付近を経由するルートは、比較的なだらかな遊歩道なのでシニア向けでしょうか(どちらのコースも大小の石が敷かれているので革靴などでは少々、厳しい。中腹/ロータリー憩いの広場までなら大丈夫)。雪が降っても通行止めにはなりませんが
5月から10月が訪れるベストシーズンでしょう。
晴れた日には、頂上から利尻山、礼文岳、稚内、そしてロシアのサハリン島などを望むことができる”360度見渡せるビューポイント”です。
また、オレンジ色に輝く朝日を浴びることができる場所でもあり、早起きした方だけが体感できます。礼文島を背に沈む夕日も望めます。
歴史
現在のぺシ岬は、1つの岩山ですが、昔は、大小2つの岩山でした。
小さい岩山は、アイヌ語で”小さな崖”を意味する『モぺシ』と呼ばれました。
このモぺシは、稚内港にある『北防波堤ドーム』(北海道遺産)を建設する時に、その”基礎石”として海底に沈められ使用されたのです。
はじめは、鴛泊の湾内の波打ち際にあった”玉石”が使われていました。
それが無くなってしまうとぺシ岬(灯台山)に目が向けられ、小さな岩山「モぺシ」が注目されます。モぺシは、大正末期から昭和初期にかけダイナマイトで爆破され、石は、岬の裏側からトンネル(現存)を通ってトロッコで運ばれ鴛泊港から盤船(ばんぶね)と呼ばれた艀(はしけ)に積み込まれ稚内港へ運ばれました。
それ以来、ぺシ岬は、現在のような姿になったのです。
忠魂碑と石碑「山神」
爆破され、その姿を消したモぺシ跡に「忠魂碑」が建てられ毎年、慰霊祭が行われたと記録に残っています。慰霊ということなので、もしかすると”山の神”を慰霊するためだったのでしょうか。
そこでは、軍人による剣道や銃剣術の試合やいろいろなイベントが行われたようです。
忠魂碑は、その後、『利尻山神社』境内に移設することになり島民の手で何日も掛けて運ばれたといいます。
現在、モぺシ跡地には、『山神』と刻まれた石碑があります。
いつ頃から設置されたかなど詳しいことは、分かっていませんが、人間の仕業に対し”山の神のお怒り”を鎮めるために島民の誰かが密かに置いたもかもしれません。
厳島神社
ぺシ岬の麓には、文政年間以降に建立された『厳島神社』があります。
神社には、1830年(文政13)に奉納された石造りの鳥居が残っています。
ぺシ岬遺跡
ぺシ岬周辺には、続縄文時代からオホーツク文化後期の遺跡が分布しています。しかし、一帯は、モぺシが爆破され更地にされるなどの影響があり、あまり調査が進んでいないようです。
ぺシ岬一帯は、岬のふもとから中腹(現在、会津藩墓碑がある広場)にかけて分布する「ぺシ岬遺跡」と鴛泊灯台周辺の「ぺシ岬燈台遺跡」、ぺシ岬南側斜面に分布する「鴛泊港遺跡」の3遺跡が知られています。
「ぺシ岬燈台遺跡」の場所は、灯台用地として利用される以前、竪穴式住居跡などが残されていたそうです。また、「鴛泊港遺跡」では、オホーツク文化中期から後期の土器が確認されています。
1969年(昭和44)のフェリーターミナル新設工事の際には、頭蓋骨が発見されています。
現在
頂上付近にある白い『鴛泊灯台』は、2019年に日本ロマンチスト協会より『恋する灯台』に選定され利尻島内の沼浦地区にある『白い恋人の丘』と並んで”恋人たちの聖地”として人気の高いスポットになっています。
灯台近くには、写真撮影用に「LOVEベンチ」が設置されていてスマホ撮影用の台もあります。