北の海の航跡をたどる〜『稚斗航路』 #2 樺太航路に再登場『樺太丸』
稚泊航路における栄光の第1船として活躍した『壱岐丸』(1599㌧)は、1932年(昭和7)同航路に最新鋭の砕氷連絡船『宗谷丸』(3593㌧)が就航したことで大阪商船へ売却されます。
その後、一時、琉球航路で運用されたあと、大阪商船は、『壱岐丸』を系列会社である北日本汽(株)に与え、同社は、改造を加えて、1937年(昭和12)4月25日、稚斗航路(稚内〜本斗/現 ネベリスク)に就航船『鈴谷丸』(897㌧)の後継として樺太航路へ再登場させます。
船名も「壱岐丸」から『樺太丸』へ変更されました。
樺太丸は鈴谷丸の約2倍の総トン数で速力も15ノット。乗客数も約2倍に増加しました。
Episode #1〜インディギルカ号救助
1939年(昭和14)12月、ソ連船(現 ロシア)『インディギルカ号』(2690㌧)が北海道・猿払村沖で遭難します。
この時、稚内港より救助に向かったのは、稚斗航路に就航していた「樺太丸」と小型発動機船「山陽丸」と「宗水丸」(いずれお250㌧)。
救助にとって幸運だったのは、樺太丸が暴風雪のため樺太・本斗へ向けての出向を見合わせて稚内港に停泊中だったことです。
樺太丸は、救助母船として活躍し、助けたロシア人402名を乗せて小樽港まで大時化の中を送り届けています。
鈴谷丸や樺太丸が活躍した稚斗航路も稚泊航路と同じく1945年(昭和20)8月に廃止となり”幻の航路”となりました。
樺太丸は、戦後、1945年(昭和20)7月〜1947年(昭和22)9月まで壊滅状態にあった青函航路で稼働します。
1948年(昭和23)6月からは、青森〜室蘭間で傭船として運航され、その後運輸省に売却され、1951年(昭和26)室蘭で解体されます。
その際、取り外された号鐘は、1967年(昭和42)船舶関係第1号の鉄道記念物に指定され、現在は、埼玉県さいたま市の『鉄道博物館』で展示されています。