北の海の航跡をたどる〜『小樽・利尻礼文航路』#7 期待を裏切られたカーフェリー『おたる丸』
島民期待の1000トン型フェリー
島民が望んだ航路の活性化と充実を図るために1981年(昭和56)6月1日、航路初となるカーフェリー『おたる丸』(2代)(996㌧)が就航します。
島には、翌6月2日に到着。各町で島民や関係者が岸壁で出迎え、初就航を祝う歓迎会が盛大に行われました。
運航会社や島民は、”1000㌧型カーフェリー”「おたる丸」の就航に小樽をはじめとする道央圏と更に強い絆で結ばれることへ大きな期待を寄せました。また、物流や観光面でも多くのメリットを生むと注目されていました。
「おたる丸」は、小樽~沓形~香深~沓形~小樽を結び、10月初旬までは隔日運航、4月下旬までは、5日と10日の月2回の運航体制でした。
小樽と沓形を8時間余りで航海することから、乗船客は、一時的に増加しますが、翌1982年(昭和57)運航会社である北海商船フェリー(1982年に北海商船より社名変更)は、旅客、車両実績が減少している現状を需要の見込み違いであったとして航路の縮小が会社経営を圧迫すると判断、『おたる丸』を9月、東日本海フェリー(現 ハートランドフェリー)へ売却します。
おたる丸(2代)の船歴
「おたる丸」は、1969年(昭和44)1月11日、東日本フェリーの青森~函館航路(青函航路)で「第五青函丸」として就航しました。
そのあと、北海商船へ売船され1981年(昭和56)6月より「おたる丸」として就航しました。
1年数カ月後、1982年(昭和57)9月に東日本海フェリー(現 ハートランドフェリー)へ売船され、その後、「第八宗谷丸」として稚内・利尻礼文航路に就航します。
さらに、1982年(昭和57)12月には、船名を「第二ひやま」と変更して江差奥尻航路に就航し奥尻島への輸送力増大に貢献しました。
北海商船フェリーは、「おたる丸」を東日本海フェリーへ売却後、航路経営の縮小を余儀なくされます。
そこで、1982年(昭和57)に稚内・利礼航路に初めて就航した東日本海フェリーのカーフェリー「第一宗谷丸」(537㌧)を用船し小樽・利尻礼文航路に就航させます。
同船は、「おたる丸」の約半分の総トン数で、いわゆるダウンサイジングされた船を使用することになったのです。
参考・引用文献
・「広報りしり」123号 1981年(昭和56)利尻町発行
・ハートランドフェリーホームページ