北の海の航跡をたどる~『ナホトカ航路』 #2 歴史の荒波を航海『コンスタンチン・チェルネンコ』号
ワイエス・トラベル
1980年代後半、私は、大阪の『山下新日本汽船航空』(YS航空大阪支店)から東京本社へ転勤となります。
大阪時代は、国際航空貨物の仕事に従事していたので、東京でも同様な業務に就きました。
しかし、その頃、東欧諸国の情勢がギクシャクしてきます。
1989年ハンガリーがオーストリアとの国境を開放したのちに東欧革命と呼ばれる急激な変動、そしてルーマニア国内の政情不安、更には、ベルリンの壁崩壊などを取材するマスコミや専門家、そして学生らが現地への渡航を希望するようになります。
その影響で系列会社であった『ワイエス・トラベル』(東京都中央区八重洲)の業務が多忙となり、私は転籍せよと社命を受けます。
仕事は各国のビザ(査証)の代理申請と現地までのアエロフロート航空の航空券の予約・発券そして宿泊と日本語通訳の手配。。。いま思い返しても本当に多忙でした。
当時のワイエス・トラベルは、日本でも珍しいソ連・東欧専門旅行会社でした。
また、『アエロフロート・ソ連航空』の日本における総代理店でもあり予約・座席調整、発券業務を担っていたのです。
当時、日本では共産圏の国が単独で会社の営業活動を行うことは、出来ませんでした。
そこで、親会社である山下新日本汽船(株)/YS LINE(現 (株)商船三井)が、ある意味、保証人となり総代理店契約を結び、その前述の各業務をワイエス・トラベルが行うことになったのです。
モスクワ出張の際、アエロフロート機内で顔見知りのキャビンアテンダントが手招きするのでニヤけてギャレー(配膳準備室)へ行くと、日本語で機内アナウンスを行えと言われました。
当時の機内アナウンスは、ロシア語と英語のみでした。
私は、彼女のアナウンスのあとに『ご搭乗の皆様、こんにちは、当機は、573便、モスクワ・シエレメーチェボ空港行きでございます。。。』と何度か行った記憶があります。
現在では、考えられないことです。ロシア人の大らかさを示すエピソードだと思います。
当然、ナホトカ航路の手配も親会社の関係で行っていたわけです。
作家・佐藤優さん
作家の佐藤優さんが浦和高校(進学校として有名)の卒業旅行でロシア旅行に行くことになった際に、その手配を行ったのが「ワイエス・トラベル」でした。
2018年(平成30)に発行された著書『十五の夏』の第一章で旅行手配の経緯などが詳細に記述されています。
佐藤優さんが、ワイエス・トラベルへ来られて、旅行相談や手配依頼をしていたのは、私が転籍となる約10年前のことでした。
ナホトカ航路に大型貨客船就航
1980年代中頃までに、「ハバロフスク」号や「バイカル」号などは退役となり、1986年『コンスタンチン・チェルネンコ』号(12,798㌧)が就航します。船名は、元ソ連共産党書記長の名前を冠したもの。
ビザなしミニ・クルーズ
1988年(昭和63)頃だったと思います。
ナホトカ航路を利用した「横浜・ナホトカ間ビザ無し7間ミニ・クルーズ」をワイエス・トラベルは、企画・販売します。
このツアーの大きな目玉は、「ロシア査証が不要」でした。
その仕組みは、ツアー参加者は、ナホトカでの下船の際に入国審査場で自分のパスポートと引き換えに「船員手帳」を渡されます。
これがナホトカ滞在中の自分のパスポートの''代用品''となるのです。夜、本船へ戻る際には、船員手帳を返却して、自分のパスポートを受け取り船内へ戻ります。ナホトカでは船で2泊しました。
このビザなしクルーズは、当時としては、画期的でしたが、ソ連邦崩壊の前後でもあり、”なんでもあり”の国内状態だったことも幸運でした。
のちにウラジオストックでもビザなしクルーズを催行したと思いますが、その際には、この船員手帳方式ではなく、入国スタンプが押印されている薄緑色のカードで対応しました。
ツアー内容は、昼食を一般のロシア人家庭の皆さんと浜辺でBBQをして、その後、観光を終えたあと、4~5人のグループに分かれ、昼間に一緒にBBQを楽しんだロシア人家庭を訪問して夕食を食べるというユニークなものでした。
当然ながら、各家庭での食事にあまり偏りがでないように食事用に”支度金”(日本人へのお土産代も含む)は、渡していました。
当時、ツアーは、マスコミにも取り上げられ、集客も好調だったと記憶しています。
しかし、1991年12月のソ連邦崩壊とともにツアーは、間もなく催行中止となります。
添乗員倒れる
当時は、私もツアー手配者、添乗員として同行していました。
このツアーで、なんとも恥ずかしい出来事が起きます。
あるミニ・クルーズを終えて、一週間ぶりに横浜に到着、そのあと横浜で1泊し再び、7日間のミニクルーズを添乗した時のことです。
ナホトカでのスケジュールも無事にこなし、明日、横浜に到着するという前夜、私は、船室で倒れてしまいます。
原因は、疲労とウオッカの過度の摂取?だったのでしょうか。
ほぼ意識を失っていたようです。
それに気が付いたお客様が船医を呼んでくれて、ドクターは、私の肩口に、サラミソーセージ位の太さの大きな注射を肩口に2本打ったそうです。
翌日、お客様からお聞きしました(私も意識がモウロウとしており、何となく注射を打たれたのは記憶していますが、サラミだったかは覚えていまん。。。)。
次の朝、レストラン前でお客様を案内をする為に入口に立っていると、皆さんが驚き、「生き返った!」とか「昨夜は、言葉もでない状態だったのに注射2本で回復するなんてロシアの医療はすばらしいわね!」などと言われました。
添乗員として醜態をさらし情けない気持ちでしたがロシア医療に救われたという意味で、とても印象に残っている出来事の一つです。
ロシアでの日本製中古車ブーム
ナホトカ航路に就航していたハバロフスク号など5000㌧級の客船が退役し「コンスタンチン・チェルネンコ」号が登場した背景には、5000㌧級客船の老朽化もありますが、当時、ロシア、特に極東地区や沿海州などで人気が高まっていた日本製中古車需要の急増が最大の要因だったと思います。
1980年代後半よりロシア人船員が”携帯手荷物”として日本製中古車を本国へ持ち帰るようになります(日本では5万円未満の物品を海外へ持ち出す場合は、携行品扱いで関税の支払いも不要)。
日本車は、中古車であってもロシア国産の新車より、はるかに性能が良く、欧米の自動車は、極東地区や沿海州では、入手が困難であり、日本車であれば、すぐにでも入手できる便利さ(地理的にも)があったため、瞬く間に人気を集めることになったと思います。
そんな時に就航した「コンスタンチン・チェルネンコ」号は、とても都合の良い船でした。
それは、船腹(貨物スペース)が十分に空いていたということ。同船の最大搭載車両数は、普通乗用車で126台でした。
また、大型冷蔵庫などの中古家電も積載できたのです。利用者にとっては、とても利便性が高い船といえました。
船員が携帯品で購入した中古車は、自分で使用するのは、もちろんですが知人や友人から依頼されたり、中古車業者からお願いされ購入し手数料をもらうことで生活の糧にしていた船員もいたと記憶しています。
当時、船員手帳(船員用パスポート)は、実際の船員でなくともお金を出せば入手可能でした。
そのため、かなりの”ニワカ船員”がコンスタンチン・チェルネンコ号にも乗船していたと思います。
これも当時のロシアの社会情勢の混乱が招いたものだと思います。
ソ連邦崩壊による航路・船名変更と「横浜・ウラジオストック航路」の誕生
1991年(平成3)12月25日、ゴルバチョフ・ソ連大統領は、テレビで辞任演説を行います。これによりソ連邦は、あえなく崩壊してしまう。
この翌年の1992年(平成4)、ウラジオストックが閉鎖都市から解除され、外国人の立ち入りが許可された。
これによりナホトカからウラジオストックへ行先が変更され、『横浜・ウラジオストック航路』が誕生します。
また、「コンスタンチン・チェルネンコ」号も元ソ連共産党書記長名からロシアの古い呼称『ルーシ』へと船名変更されました。
船内の想い出
#Episode1 ボリショイ・サーカスの熊
今年の夏(2023年)もサーカス興行の老舗である「木下大サーカス」が全国各地で移動公演を行いました。
1990年前後、同じようにロシアの「ボリショイ・サーカス」が日本で公演を行い子供たちを喜ばせていたと思います。
そのサーカスに登場する動物たちの一部は、ナホトカ航路を使い来日していました。
ある時、ボリショイ・サーカスの熊と一緒に航海することに。
当然、檻には入っていましたが、「近づくな!危険!」などの注意書きもなく甲板に置かれていたと思います。
#Episode2 社交ダンスの通訳
当時、私は、頻繁に本船に乗船しており、”ニワカ(なんちゃって)船員”扱いでした。
ナホトカへ向かう船内では、乗船客のためにイベントが催されており、
その中でロシア人ダンス講師が教える「社交ダンス・レッスン」がありました。レッスン時間は、約30~40分間。参加者は、ほとんどが日本人。
ある時、暇だった私は、何げなくレッスンをホールの片隅で眺めていました。すると講師から”通訳しろ!”と突然、言われます。
ダンスの専門用語など知らないし、通訳できる語学力もないと一旦、断りますが、結局、”だまし、だましにダンス通訳”をすることになります。
気が付くと、その後、乗船するたびに、自らすすんで社交ダンス通訳をしていました。
#Episode3 ウオッカとワインの飲み比べ
船内の乗船客の船内プログラムは、前述のロシア人講師による社交ダンス・レッスンの他には目立ったものは無かったと思います。
乗船客は、プールで泳いだり、読書をしたり、カラオケルームで楽しんでいました。
ある時、暇を持て余す人もいると気が付いた一等航海士が、何か日本人が喜ぶような船内イベントはないか?と相談してきました。
私は、ウオッカとワインの紹介と試飲を提案。実施することにしました。
ロシア産ウオッカを3種、グルジアワインを2~3種と酒のつまみ(イクラをのせたカナッペなど)を用意して、お酒の紹介やロシアでの飲酒マナーなどをレクチャーする船内講座を開催。日本人乗船客には、おおいに受けたと記憶しています。
参加料は、1人1000円。全て一等航海士の懐に入ったのか、本船側の収益になったかは分かりません。
少なくとも私には企画料や通訳料は、一切、入らなかったと思います。
#Episode4 ブルガリアの女性グループ
ナホトカへ向かう船内で若い外国人女性たちのグループに遭遇したことがありました。。一見してロシア人でないことはわかりました.
聞くと、日本でのバトントワーリング大会に参加したブルガリア代表団でした。。全員女性で年齢は、十代後半から二十代前半。
彼女たちが甲板でバトントワーリングの練習を始めると見物客が、どこからともなく出没して彼女たちを取り囲みます。
さすが東欧でも美人の国と呼ばれるブルガリアだと心の中で思いながら、私と一緒に練習を眺めていたように思います。
#Episode5 プールサイド
就航船「コンスタンチン・チェルネンコ号」や改名後の「ルーシ号」の船体後部には、小さいプールが設置されていました。
不思議なことに泳いでいるのは、日本人がほとんど。ロシア人など外国人乗船客は、プールの周辺で日光浴を楽しんでいる方が大半でした。
#Episode6 船内レストラン
船内レストランは、広くて、ゆっくりとくつろいで食事ができる場所でした。
乗船客は、乗船チェックイン時にレストランのテーブルを指定されます。
混みあっている場合は、知らない人と同席もあったようです。
船内の食事は、朝・昼・夜とそれに午後3時のおやつタイム。
食事メニューは、事前にレストラン入口に貼りだされ、ロシア語と英語で日本語での表記があったかは記憶にありません。
食事は、若いロシア人ウエイトレスが運んでくれて、テーブル担当が決まっているらしく、いつも同じウエイトレスが給仕をしてくれました。
日本のオジさんたちは、得意の”プレゼント攻撃”で彼女たちとの仲を徐々に縮めていくことに躍起になっていました。
1つだけレストランで困ったことは、室内がとても寒いこと。
寒いというより冷蔵倉庫や冷凍倉庫にいるような感覚でした。
当時、これは客船に限らず、成田~モスクワ間に就航していたアエロフロート・ソ連航空の主力航空機イリューシン62でも同様でした。
真夏、最初に搭乗すると機内の後部方向が霧のようなミストが立ち込めているようで良く見えませんでした。そして機内がとても寒い。
日本人旅行が、まず最初にロシア人CAさんにお願いすることは、”毛布を一枚ください”でした。
#Episode7 ヘアーサロン
私は利用したことはありませんが、船内には、床屋・ヘアーサロンもありました。
中年のロシア人女性がカットしてくれるのですが、利用した日本人女性から聞いた話で覚えているのは、シャンプーが日本で市販されている「エメロン・シャンプー」で”値段が安いやつ”だったと驚いていたこと。
その後、確認に行くとエメロン・シャンプーのピンク色と水色の質素なシャンプーボトルが置いてあったと思います。
#Episode8 アルビナおばさんとバリザム
船内では、多くの乗組員が働いていました。
なかでもナホトカ航路での有名な乗組員は、日本人乗船客から”アルビナおばちゃん”と親しまれた、いつも白衣を着ている陽気な女性です。
彼女はロシア式サウナの担当でもあり、サウナを出た乗船客にマッサージも施してくれていました。
日本語は、ほとんど話すことはできませんでしたが、いつも彼女の周りには日本人乗船客がいて笑い声が絶えませんでした。
そのアルビナおばちゃんが日本人乗船客に勧めてくれたのが『バリザム』。
一言でいえば、ロシアの養命酒、薬草酒です。しかし、ウオッカベースだと思うのでアルコール度数は、たしか40~45度だったと思います。
シベリア産の薬草が入っているので健康には、とても良いとアルビナおばちゃんは言っていたらしいです。
その後、日本人の間で大人気となり、ロシアのお土産で「バリザム」を買って帰国する日本人観光客が増えたと聞きます。
私も飲んだことはありますが、おいしい飲み物ではありません。
薬草入りなので健康に良いのかな~?養命酒だな~?という印象です。
料理と一緒には飲めません。養命酒とご飯を食べられないのと同じです。
現在でもロシアで販売されていると思います。
再び、ロシア旅行が”解禁”された時には、購入してみてください。
現在の健康ブームを反映して高額になっている可能性はありますが。
#Episode9 KGBによる尋問?
ソ連邦崩壊前のロシア客船には、必ずKGB(秘密警察)の職員が乗船していました。
ナホトカ航路の就航船も同様です。
KGBは船室をあてがわれ、さすがにドアには”KGB在中”などとは書かれていませんでしたが、当然ながら船員たちは、船内のどこに部屋があるかは知っていましたし、監視されていることも承知していました。よって、船員から嫌われもしていたようです。
そんな状況下で1度だけ、その部屋へ”出頭を命じられた”ことがありました。
そのころは、”ニワカ船員”で日本人のために船内放送をしたり、簡単な通訳などをしていて、いま考えるとある意味、”調子にのってました”。
あるウエイトレスの女性とも暇な時間にコーヒーを飲みながら話したり、夜にお酒を飲んだりして”親しげに”していました(前述のウエイトレスさん写真の右端の女性です。名前は忘れてしまった。。。30年以上も前ですので)
KGB職員から、その女性との関係を聞かれました。
当然、変な関係などあるわけもなく、たどたどしいロシア語で説明したと思います。
分かって頂けたようで”拘束されることもなく”、無罪放免されました。
あとからロシア人船員から聞いた話では、私が親しくしていた女性に好意をもっていた船員があることないことKGB職員に話したようです。
ある意味、”密告”です。貴重な体験でした。
民間人でKGBに”尋問された”人はあまりいないと思います。
#Episode10 日本人”にわか”船員
”ニワカ船員”の船内での”職場”は、船内インフォメーションセンターです。
日本語で食事時間や本船の位置案内、イベント案内を放送したり、日本人乗船者の簡単な旅行相談にものっていました。
船内には専門の日本語通訳が1名乗船していたので二人で対応していたのです。
また、ロシア人(船員を含む)からの相談も多く、その内容のほとんどが中古車を買い付けに行くけど、この場所は、どのように言ったらいいのか?や1日で船に戻ってこれるか?など中古車がらみが多かったと記憶しています。
#Episode11 直木賞作家と一緒
ナホトカへ向かう船の中で1980年代後半から何度か直木賞候補にあげられ1991年(平成3)に『狼奉行』で下半期の直木賞を受賞された高橋義夫さんと受賞された年にご一緒したことがありました。
高橋さんは、お酒を飲まれると陽気な方で場を和ませてくださり2晩、楽しい時間を過ごさせて頂きました。
その時、サインを頂戴するのを忘れていました。
あとから気が付きガッカリしました。
その後、1990年に直木賞候補になった『北緯50度に消ゆ』を読みましたが、とても面白かった。
#Episode12 救難訓練
おそらく現在でも客船に乗船した場合は、同じだと思いますが港を出港すると24時間以内?に乗船客は救難訓練を受けなければなりません。
当時のナホトカ航路も同じでした。
訓練時間がくると各船室を担当するロシア人船員(レストランのウエイトレスの場合もあった)が甲板に集合するように指示を出してまわります。
乗船客は船室にある救命胴衣を装着して甲板に向かいます。
そこで、非常時、救命ボートは、この番号のボートに乗るように教えられます。
終了すると日本人のオジさんたちは、”あの船員さんは、かわいかったね~”と言いながら自らの船室へ戻るのです。
#Episode13 船内ショータイム
船内には、運航会社である極東船舶公社(FESCO)専属ダンスチームが乗船していました。
彼らは、毎晩、夕食が終了した午後9時頃から民族舞踊やモダンダンスなどを乗船客に披露していました。
衣装も可愛らしく、音楽も日本人に馴染みのあるロシア民謡や曲調も多かったと思います。
このショーを楽しみに乗船する日本人観光客も多かったのです。