「ねばならない」を手放す
「○○しなければならない」
→「ねばならない思考」
目標を掲げ、決心をして
実行・実践を日々重ねる
一見、とても良いことのように思えてしまうのですが
これがかなりな弊害を生んでしまいます。
社会性や「常識」とされることがらに自分を照らし合わせて生きている「わたし」と
「わたし」の中にいる
いつでも本音でありたい「自分ちゃん」
私= わたし+自分ちゃん
という構造を想定し
「私」を快適に生きることを日々心がけています。
ややこしいですか?笑
本音を大切に、建前や思考はさておき
本当にしたいことにちゃんと向き合うという
本来ならばわざわざ宣言しなくても
あたりまえにできることかもしれませんが
私はこれが子どもの頃から大の苦手でした。
常々「こうあらねばならない」
という設定があり
本音はエゴ、わがままとして封印
今にして思えば酷い話です。
「わたし」が「自分ちゃん」の気持ちに寄り添い
いつも親身に傾聴できれば
「私」の心身は健やかに、日常ははうまくいくのです。
子どもの頃、親から
○○しなければならない思考で育てられ
その思考パターンを実行できるかできないかが
優劣・善悪の評価対象になってしまうという笑
なんともきゅうくつなパターンに
私は幾度となく苦しみました。
だからといって親が悪いということではなく
親は私に良かれと思って
そのようなしつけをしたのですから
根底には愛があるのですが...
背景はどうあれ
○○しなければならない
という設定では
日々緊張感を強いられ
反発したい気持がくすぶりはじめ
やがて爆発し
自分ちゃんの暴動が起こる
掲げた目標を守れない自分を責め
劣等感に苛まれ
後日我に返り
罰として笑
それまでよりもさらに厳しめな目標を
設定してしまう
素粒子レベルから
完全に負の連鎖となってしまいますね
ねばならない
↓
いろいろな選択肢があるよ
↓
快適な方を自由に選んでいいよ
↓
たまにはサボってもいいよ
↓
なかなかよくできているよ
こちらに置き換えることで
ねばならない(=100対0思考)から
いつでもおおむね良好
8割できていればまあいいか
という心地よい世界を生きられるようになるまでに
数十年を要しました。
ねばならない思考の具体的な弊害としては
素粒子レベルからの自己否定
恒常的な緊張感
浅い呼吸
無意識のくいしばり
これらが常態となると
ターンオーバーの乱れ
自律神経系のアンバランス
血液やリンパなど循環系の滞り
肩首のコリ
などなど....
ゾッとしますね。
私は数十年かけて
やっと「自分ちゃん」と仲良くなりましたが
思考をすぐさま変えることができる
とても簡単な方法を
つい最近学びました。
長くなりましたのでまた次の機会に。