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牛乳の中にいるハエ

23時。僕は渋谷のクラブにいた。
時間が少し早いせいか、人はまばら。大学生のような若者が多かった。それはスーツ姿の僕を牛乳の中にいるハエのようにはっきりと浮かび上がらせた。女の子の比率は2割弱。みな男達に話しかけられていた。

どうして僕はここにいるのだろう...。

寂しいのか、セックスがしたいのか、口説いて自分に自信をつけたいのか、どれも自分の感情の一部ではあるが、全て本当でない気がした。

「自分はここにいるべきではない、もっと特別な存在だ」
とまだ微かにそう思い込んでいた。
2人の女子大生がフロアの中央にいた。彼女たちは2人の20代前半とみられる男とそれぞれ話していた。1人は白いワンピースに大判の黒のベルトを占め、ベージュのヒールを履き、小柄ではあったが均整がとれたスタイルだった。彼女は酔っているのか、上機嫌に踊り、その場で最も目を惹く存在だった。もう片方の女の子が男の1人と楽しそうにしているのとは対照的に、彼女は無骨に絡んでくる男に嫌悪感を示していた。そこに確かな勝算を感じた。
僕は彼女たちの後ろに移動した。その男に抑圧され、不自由さに対する不満を彼女の表情に見てとれた。その時、彼女と目が合った。普段よりコンマ1秒長く彼女を見つめ、先に視線を逸らした。彼女は踊りながら、僕に近づき、踊りを促してきた。僕はその誘いを無視した。その行為がより彼女を惹きつけると思ったから。彼女は完全に僕に関心を寄せてくれたようだ。先ほどの男がその変化に気づいたのか、彼女の腕をグッと引っ張った。彼女は明確に不快感を露わにし、その男を振り払い、僕に
「ねぇ、踊ろうよ」
真っ直ぐに僕の目を見てそう言った。
「恥ずかしいから、俺はいいや」
と少し笑い、また彼女の存在にまるで興味が無いように振る舞った。彼女は一瞬もどかしい表情を浮かべ、両手を僕の首へ回した。
それでも関心を示さずにいると、その男と目が合った。彼は敵意をむき出し、彼女を取り戻すチャンスを伺っているようだ。彼女が僕の耳元で
「ねぇ、お酒飲もうよ」「いいよ」
僕は彼女の腰に手を回し、バーカウンターへ向かった。
「何飲む?」「1番強いのがいい。」
僕はテキーラを2つ頼み、彼女と一気に飲み干した。フロア中央に戻ると彼女はさっきより深く手を回し、踊った。ずっと痛いほど視線を感じる。彼を刺激するのは良くないと思い、
「上のフロアに移動しない?」
と聞くと
「いいよー」
という明るい声が返ってきた。彼女の手を握り、エレベーターに乗った。
「友達とあの男の人は大丈夫?」「友達は慣れてるから大丈夫。あの人ほんとしつこいから、逃げたかったの。」
「名前は?」「私はしほ」
彼女が笑った。
上のフロアは数人しかいなかった。しほはヒールにも関わらず、軽快に踊っていた。
「私ダンス部だったの。全国大会にも行ったことあるんだよ。」
僕の側を離れず、音楽に合わせて踊り続けた。丸顔で目が大きく、黒髪の長髪で全部にどことなく品があった。しほはこの場で誰よりも自由だった。それは、誰にも犯されたくない尊いものだった。
「疲れちゃった」
彼女は甘えて抱きついてきた。上目線遣いで僕をじっと見つめた。僕は応じず、抱きしめた。彼女がより食い付くことをわかっていたから。
しばらく踊った後、休憩場所を探した。地下の立ち入り禁止の場所に入ると、古びた赤いソファがあった。そこに一緒に座り、僕達はキスをした。彼女を抱き締め、胸を揉んだ。彼女の声が漏れた。僕は何の快楽も感じなかった。本当にしたいことではないと半ば確信しながら
「ホテル行かない?」「いいよ。友達に言ってくるから待ってて。」
退屈な答えだった。初めこそしほに惹かれたが、今は彼女をコントロールできる対象だと思っている。しばらくすると、彼女は友達と敵意を向けてきた男の友達の方を連れて来た。しほが
「今からみんなでカラオケに行かない?」
ホテルよりもずっとマシだと思い、僕は承諾した。男はジャニーズ風の中性的な顔立ちでモデルをしていると言う。
「はじめまして。一緒に楽しみましょうね。」
悪い人ではなさそうだが、軽い印象だった。3人に先に外に出てもらい、僕はトイレへ向かった。
外に出ると、しほとそのモデル男がキスをしていた。
僕は失望した。その次に怒りが湧いてきた。その強い感情を丁寧にほどいてみると、それはまだ彼女に期待していた僕自身に向いたものだった。
4人でカラオケに向かう途中、しほは何もなかったかのように笑いながら僕の腕を掴んできた。それを僕は冷たく振り払い、彼女に侮蔑の眼差しを向けた。しほはひどく驚き、子供がデパートで拗ねるように道玄坂の中心で泣きじゃくった。彼女を哀れに思い、その手を握ってカラオケへと向かった。
4人で部屋に入り、何曲か歌った。しほは歌うことなく僕の肩に頭を乗せ、気づいたら眠っていた。
僕も目を閉じ、眠りそうになっていると、押し殺した喘ぎ声が聴こえた。それはどんどん大きくなっていき、モデル男とその女の子は外に出て行った。
僕は眠っているしほを見た。僕の肩にしっかり掴まり、眠っている彼女をとても愛しく感じたが、同時に彼女とは根源的な部分で分かり合うことはできないと思った。今すぐに僕はこの場から離れる必要があった。
しほを1人部屋に残し、カラオケを後にした。

どうして僕はここにいるのだろう。

それは僕のことを理解し、受け止めてくれる存在を求めていたからではないか。それが不可能と知りながら。
僕はハエだ。
いくら必死に牛乳の中を潜っても黒い僕が浮かび上がってしまう。
そうして僕は夜に溶けて消えてしまった。

私は変態です。変態であるがゆえ偏っています。偏っているため、あなたに不快な思いをさせるかもしれません。しかし、人は誰しも偏りを持っています。すると、あなたも変態と言えます。みんなが変態であると変態ではない人のみが変態となります。そう変態など存在しないのです。