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あなたの魂は震えているか?

近頃自分によく問いかける。
「私は魂が震える生き方をしているか?」
と。
「魂が震える」とはすなわち生きることである。

魂が震えた災害ボランティア

平成27年9月関東・東北豪雨

大学生のころ、北陸で大規模な水害が発生し、そのボランティア活動に参加した。到着早々テレビで見た悲惨な風景は現実のものだと肌で感じ、被災された方と対面すると妙な緊張感が押し寄せた。つい数日前、その土地に住む人たちは平穏な日常を過ごしていたし、今後もその予定だった。それが唐突に修復不可能なものに換えられてしまったのだ。私は100名のボランティア隊の1人として被災者の家の中の瓦礫やヘドロを除去していった。黙々と作業をしていると泥だらけの家族アルバムを発見した。家主にお渡しすると膝から泣き崩れてしまった。どういう感情だったかはわからない。
その時予期せず、私の奥底にある何かのスイッチが入った。
今自分にできることは迅速にこの作業を終わらせること。食欲、排泄など生理的欲求さえもどうでもいいと思えた。「今この瞬間に駆ける」という確かな感覚を持っていた。私は家の床下のヘドロをバキュームでとにかく吸った。10時間以上の危険の伴う厳しい作業であったが、私はこれが自分に課せられた使命であるかのように没頭し、3日間同じ作業を続けた。
最終日のお昼休憩。
家主が私たちにおにぎりを用意してくれた。塩握りの中に鮭が入っていた。とてもおいしかった。ボランティア隊から離れ、私は1人泣いた。どういう感情だったかはわからない。到着時は警戒心があった地元の人たちも出発の頃には穏やかに接してくれたのがうれしかった。あり余る熱量の放出先が見つからなかった私の魂を震わせた体験だった。この時ほど私は生を身近に感じたことはなかった。それ以降何度も災害ボランティアに参加したり、ナンパ、大学の研究に熱中したが、2度と同じ体験は得られなかった。

環境があなたに宿命を与える

「今この瞬間に駆ける」という圧倒的な使命感(宿命)を持つことが魂が震える生き方につながるのだろう
高校生の時に似た経験があった。当時私は野球部の中心的存在で学校や親、友達もその活動を後押ししてくれた。もちろん勉強など一切せず、私は野球に取り組むことが宿命だと思っていた。純粋に野球が上手くなりたかったし、良いチームを作り、勝ちたかった。それが周りからも求めれていると思った。二つの体験の共通点は他者からの強い要求だろう。自分で使命感のような強烈なスイッチを入れるのは容易ではなく、他者がそのきっかけを与えてくれるのかもしれない。

人間・この劇的なるもの

仕事や趣味でも魂が震える体験は得られるだろうか。おそらく会社員では難しい。「自分意外で代替できる仕事」がほとんどだからだ。趣味も自己満足の範疇では難しい。やはり己の魂を震わすためには他者が介在する必要があるのだ。
強烈な他者からの要求にそれが宿命だと思い演じ切ること。そうして魂が震えるような生の充実が得られるのではないか。
魂が震える生き方とは劇的に生きること。他者から求められた「舞台」という制約が必要なのだ。
制約がない圧倒的な自由は実は圧倒的に不自由である。エーリッヒフロムの「自由からの逃走」という本がある。ドイツ国民は望んでいた自由を自ら放棄し、ナチスの独裁政権を選んでしまった。つまり劇の舞台という制約の上でその瞬間に駆ける。他者は自分にその役を全うすることを求める。その役を宿命だと信じ、演じ切ることで私たちは初めて生を実感できるのだ。

冒頭の言葉は「魂が震えるとはすなわち生きることである。」は説明不足であった。「魂が震えるとはすなわち劇的に生きることである。」

参考文献
エーリッヒフロムの「自由からの逃走」
福田恆存 「人間・この劇的なるもの」



私は変態です。変態であるがゆえ偏っています。偏っているため、あなたに不快な思いをさせるかもしれません。しかし、人は誰しも偏りを持っています。すると、あなたも変態と言えます。みんなが変態であると変態ではない人のみが変態となります。そう変態など存在しないのです。