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僕が僕であるために

名前、年齢、学歴、職業や国籍... それらに意味はあるだろうか?

芸術家の岡本太郎がタモリ司会の番組冒頭でカメラを向けられ、
私だ (発声はしてない)
と言うように手を広げ、目を大きく見開いた。タモリ氏が
「岡本太郎さんです。」と苦笑しながら紹介すると、岡本氏は
「そうか、知らなかった」と真剣にとぼけてみせた。

その数秒満たない映像は私の精神の根本を激しく揺さぶった。自己紹介をする際名前を名乗るのが普通だと信じて疑わなかった。名前、職業や年齢など自分に付随する情報を伝え、相手はそれを聞く。それが当たり前だと思っていた。しかし、
私たち個々人は決して名前などに規定されない固有の存在
のはずであり、「私だ」と言うように目を大きく見開き、手を広げることで十分な説明になるのではないか。岡本氏は後にこう言った。

「爆発的な解放をする上では、 自分の名前すら拘束する邪魔者でしかない。」

爆発的な解放、つまり人間の根源的な快楽を追求するためには名前など必ずしも必要はなく、むしろ障害になってしまう。
私はよくナンパをする。学生の頃は年上の女性と好んで交友を持った。彼女たちと関係が深くなると「年が離れている」「学生だから」という理由で私から離れていった。私の魅力不足が1番の原因だが。また名前も知らない一夜限りの女性と深い快楽を感じることもあった。

なぜ私たちは生の心を失ってしまうのだろう?

建前のカテゴライズは私たちの生の心に錆びついた赤褐色の垢をつけてしまうよ。その垢にまみれた心は自分の本来の感情を遠ざけてしまう。
僕の心にも卑しい垢がこびりついている。付着するのは簡単だが、除去するのは大変困難であり、非対称だ。僕は残りの生を懸けてその浸食に抗い、自分の根源的な快楽を求めていきたいと思う。

私は小学校入学時までよく笑い、素直な子供らしい子供だった。
しかし、野球のクラブチームに入ってからは一変した。そこでの指導者たちは子供たちに運動の楽しさを教えようとはせず、試合で勝つこと(実力)だけを強烈に求めた。試合に負けると暴力やしごきは当たり前。彼らは子供を恐怖によって縛りつけ、従順にさせた。
ただ私は激しく反抗した。もちろん恐怖はあったが、自分を徹底して貫いた。とにかく練習して大人たちに有無も言わせないように実力をつけた。今思えば真っ直ぐに貫いたつもりが、それは根本から歪曲していた。

子供は自分の感情と正確にリンクする言葉をもたない。当時の僕には大人に対峙するため、必然的に実力が必要だった。
そうして、僕は笑わなくなっていった。
野球はやるべきこと、自分に求められることとして高校まで続けた。

思春期になると女の子がどうしても気になった。ただ関心はその肉体だけで、彼女たちが噂話や恋愛の話が聞こえてくると嫌悪感を抱いた。だが同時にその体には強く惹かれてしまう。僕は女の子と同じ立場で交わろうとはせず、拒否し続けた。
また自分のコミュニティ外の同性には高圧的、暴力的に接した。そうしないと自己が保てなかった。大人への敵対心は野球の指導者から教師へと移り変わり、私の主要な部分を担っていた。
きっと私は自分の認識している以上に多くの人を傷つけてきたことだろう。

大学では研究室、ボランティアそしてナンパした女の子、本の著者などと多くの人と接した。
今まで出会ったほとんどの人は私に対し、無関心であったが、極々一部の人は私を強烈に支持してくれた。人生を通して、そんな人たちのおかげでずっと私は救われてきて、少しずつ滑らかにしてもらえたのだろう。

哀しいが、成長期の体験はその後の人生に大きな影響を与えてしまう。
虐待を受けて育った人は自分の子供に虐待をしてしまうことがある。
私を構成するほとんどは成長期の体験がベースにあり、これからは単なる微調整でしかないのかもしれない。それでも私は今、この一瞬の快楽を求めていき、その過程の一部をここで綴っていきたいと思う。

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Jun Strummer  (ジュンストラマー)
私は変態です。変態であるがゆえ偏っています。偏っているため、あなたに不快な思いをさせるかもしれません。しかし、人は誰しも偏りを持っています。すると、あなたも変態と言えます。みんなが変態であると変態ではない人のみが変態となります。そう変態など存在しないのです。

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