うたうたいのものがたり #3
私には荷が重かったということなのだろう。
この研究室で切磋琢磨しながら研究する自分を夢見ていた。
でも、ここで磨かれるには私の能力も強度も圧倒的に脆弱すぎた。毎日毎日がんばってなんとか食らいついて、そうすればするほど、輝くのではなく自分が削れていっていること。本当は少し前から気がついていた。同期たちの輝きの中に埋もれ、それでもせめて迷惑はかけたくないからひたすら手を動かす。ガリガリ、ガリガリ。頭の中で目の粗いやすりみたいなものがずっと動いている。ガリガリガリガリ。半端な自分に嫌になる。がんばってがんばってがんばれば、一応ある程度の成果を出すことはできた。でも、頭の中で音が止まない。ガリガリガリガリ。成果が出てチャンスをもらっても嬉しいと思わなくなってきた。きっと、大切な何かを削り落としてしまったのだろう。
ああ、疲れたな。
疲れているということに気がついた瞬間、ひとりデータを見ながら涙が溢れた。もうお終いにしよう。この発表で最後にしよう。
その発表のひと月後。
後輩たちが入ってきて賑やかになった研究室の隅で私はボリュームを絞ったイヤホンで音楽を聴きながら必死でデータをまとめていた。年度変わりのこのタイミングで、教授との面談がおこなわれる。教授は独特の世界で生きているような人だが、その分他の人もそれぞれの世界で生きているということへの理解が深い。私は、結果を出せなくてもいいから、無事に卒業したい。そう伝えるつもりだった。だから最後の一仕事。私の手には余るけど、このテーマはとても良いものなのだ。せめて次の人に向けて、きちんと自分がやったことをまとめておかなければ、テーマも、あの発表の日までの私も可哀想すぎる。肘が引っかかり、参考資料の文献がデスクから落ちてしまう。ああ、デスクの上すら思い通りにいかないなんて。椅子を動かし床に手を伸ばそうとすると、後ろから声がした。
「拾いますよ」
私がノロノロと振り向くと、つい数日前に研究室に配属された後輩の多崎が少しの緊張を含んだ笑顔で文献を手渡してくれた。その笑顔のせいで何故だか自分がより一層惨めな気がして、小声でお礼を言い逃げるようにデスクに向き直る。早く立ち去ってほしいと心から思った。
「先輩やっぱりかっこいいですね」
聞き違いかと思いイヤホンを外しながら振り向くと、多崎が少し安心したような笑顔になる。
「邪魔してすみません。でも、どうしても先輩に伝えておきたいことがあって。」
「この間の発表、先輩がダントツでかっこよかったです。発表面白いし、質疑応答のレスポンス異常に早いし。」
「他の先輩たちのもすごかったんですけど、なんか難しそうなことしてるのがすごいな〜って感じだったんですよね」
「先輩のだけ、めちゃくちゃ面白そうで、もしかしたらこんなこともできるのかな、って聞いててワクワクしちゃって。」
「なんか、テーマを自分のものにしてる感じ。質疑応答も笑顔でよくぞ聞いてくれました!みたいな雰囲気で超かっこよかったです」
「絶対、面談で先輩のテーマやりたいって言うんでよろしくお願いします」
「先輩からも多崎このテーマに向いてるんでうちにください、って教授にプッシュしておいてくださいね!」
キラキラした希望で全身を輝かせながら去っていく多崎に、一応言っておくねー!と笑顔で返しながら私は混乱していた。何をどう返事したか思い出せないくらい、多崎の一言一言を吸収するのに必死だった。嬉しかった。本当に本当に嬉しくて、同時に自分に失望した。こんなに嬉しい言葉をもらっても、明日からがんばろうと思えない。もう1ミリも自分に期待できない。どうせ私には何もできない。
その瞬間、急にひとつの考えが降ってきた。
でも、多崎なら?私にはできなかったけど、彼なら?そして、私はひとりだったけど、私がサポートできるのであれば?
散らかったデスクと、モニタいっぱいの数値。膝の上に載せた、先程多崎に拾ってもらった文献をてのひらでそっと撫でる。このテーマは良いものなのだ。ここまで必死でやってきた自分を思い返す。自分では無理だけど、次の人に伝えて支えることはできるかもしれない。
ちがう、やってみたいのだ。
致命的なまでのセンスのなさを仕事量で補うだけの自分では、たどり着けないだろう遠くまで広がるテーマに怯え離れようと思った。
でも彼はさっきなんて言った?
こんなこともできるのかな、と。
なんて頼もしく勇敢な一言なんだろう。力無く開かれたてのひらを、ぎゅっと握ってみる。そう簡単にはいかない。上手くいかないことが山積みできっと多崎もすぐに壁にぶち当たる。でも、私にはこれまで費やしてきた時間と培ったきた経験値がある。
背筋を伸ばし座り直す。久しぶりに視界が広がった気がする。先ほどまで聴いていた歌声が頭の中に蘇る。大丈夫、きっと明日からまた忙しくなるはずだ。
♬「大丈夫だから‥」背伸びした声が ぼやけた未来を 鮮やかに照らす
♬消えそうな夢も 届かない光も あの日にかざした 掌、忘れない
掌 / 松尾太陽