マンションA棟に帰る

外から聞こえるバイクの音で目を覚ます。カーテンの隙間から漏れる朝日を頼りに、枕元に置いた腕時計に手を伸ばし特に意識することもなく左手首につける。何時だろうと思い、つけたばかりの腕時計に目を向けて、思わず舌打ちがでる。そうだ、この前の火曜日に止まってしまって電池交換に持っていったけど、もう時計自体が故障していると言われて電池交換してもらえなかったんだった。仕方なくスマホの画面で時刻を確認する。朝の6時11分。少し早いけど二度寝するほどではない中途半端な時間を持て余し、日記に手を伸ばす。角がボロボロになっている表紙を1枚捲ると、濃いめのグレーの印字文字でこんなことが書いてある。【日々の生活や感じたことを記録してみましょう。日記を書くことを通して、理想の自分に近づいていけるように、まずは目標や願い事を書いてみましょう。】その下には、可愛らしい蔦植物と鳥のイラストで囲われた【目標】を書くためのスペースが作られていた。

あの人とまた出会えますように。

なんて陳腐な願い事なのだろう。そして、絶対に叶わない願い事。叶わないのを理解していながら願わずにはいられないのに、願う自分への失望はどんどん膨らんでいく。再び左腕の時計に目をやった瞬間に止まっていることを思い出し、自分へのイライラが蓄積されていく。

1枚捲った表紙の次のページには、昨日の日記が書いてある。食べたもの、好きな曲、見ていて楽しかったテレビ。簡単な感想をつけて書いた昨日の一日の記録に何度も出てくるあの人の名前。翼にも食べさせたい。翼の好みではないかもだけど、私はすごく好きな歌声!絶対、翼も好きだと思う。ぐしゃぐしゃの気持ちになったので、手帳を壁に投げつける。ダメだダメだダメだ。このまま考え続けたらここから一歩も出られなくなる。

いつも通り慌てて逃げ出すみたいな速度で化粧をし、荷物を整え、着替える。左腕につけた止まっている時計ではなく、音を消してつけていたテレビの画面で時刻を確認する。だいぶ早いから一つ先の駅まで歩いて行こうと決意し、コップ1杯の水を一気に飲む。玄関に向かう途中で床に落ちた何かを蹴飛ばしてしまい、視線を足元に落とす。先ほど投げつけた日記が【目標】のページが開かれた状態でぐったりとしていた。あの人とまた出会えますように。自分の願いが重くのしかかってくる。生まれ変わりだか、来世だか、天国だか地獄だか知らないけれど、とにかくどうにかまた出会えますように。そのためには、ちゃんとしていないといけない気がする。願いを叶えてもらうには、誠意を見せなければいけない。誰にかはわからないけれど、ちゃんとしていないと、願い事なんて届かない気がする。

ノロノロと日記を拾い、昨日のページを開いた状態で机の上に広げる。願い事の書かれたページの裏側に左手をそっとおき、日記帳が動いてしまわないようにしっかりと押さえる。右手で昨日のページを持ち一気に引きちぎると、ビッと鋭い音がしてまた1ページ日記帳が薄くなった。今日こそは、今日こそは、あの人のことで感情が揺れていない日記になるかもしれない。あの人の服やコップ、写真がたくさんの部屋の中を見回す。この部屋で起こることがあの人に繋がるのはそれでいい。ただ、外に出たらそれとは独立してあるべきだ。それが、ひとりの大人としてちゃんとするっていうことだと思う。この部屋の中からあの人の気配や想いが消えることはないのだから、外では存分に楽しく愉快に暮らして、それを日記につけて証明しなければならない。

決意を固め、破った手帳のページをゴミ箱に投げ捨てる。外に出て鍵をかけていると、上の階から子供たちの行ってきまーす!という声が聞こえてきて、喉が詰まる。子供は苦手。時間の使い方が違いすぎるんだもの。エレベーターで出くわすのを回避するため、外階段を3階分駆け降りる。出勤時間と登校時間が近いからか、気がつけばほぼ毎日階段で降りている気がする。翼なら、健康的でいいじゃん、上りも階段にしなよ、って言いそうだな。外の日差しの眩しさのせいか、階段を降り切ったところで何だか目眩を感じた。幸いすぐに治ったので、気にせずに背筋を伸ばして駅を目指す。さあ今日こそがんばろう。

一日がんばって働いた後の帰り道、好きな音楽を聴きながら歩く時間って嫌いじゃない。最寄駅から歩いてくるとマンションの側面にある裏手側の入り口の方が近いので、わたしの住んでいる部屋の窓は角度的に見えない。歩くのは嫌いじゃないけど、一日中立ち仕事をした後に3階まで階段を登るのはしんどいので迷わずエレベーターに乗る。3階についたのでエレベーターを降りる。鞄の中で鍵を触りながら、部屋の前まで歩く。鍵を取り出そうとしている左手とはバラバラに、右手が302号室のインターフォンを押す。返事の返ってこないインターフォン。揺らいだからだを、鍵穴に刺した鍵を持つ左手一本でなんとか支える。部屋の中に転がり込むと、今朝捨てたのと同じような「千切った昨日の日記のページ」でいっぱいのゴミ箱を蹴飛ばしてしまった。ゴミをゴミ箱に戻す。この部屋に戻ってくると昨日と今日の境目が曖昧になる。昨日も同じようにゴミとなった日記のページを拾い集めた気がしてきて、気持ち悪くなる。それでもなんとか、表紙がボロボロになって、初めの頃よりページ数が半分くらいになってしまっている日記帳の【目標】の次のページを開き、今日一日を記録するため、私はペンを右手に持った。

♬マンションA棟3階で昨日の涙探して 魅せて壊してこんなものか、と笑えば

♬どこまで続くの?アタシの声届くかしら

マンションA棟 / 松尾太陽

マンションA棟を聴いて生まれた、わたしの中にある小さな世界のような物語。

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