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ソノコ【chapter60】
時々、耳に届く音で聞きたい言葉がある。
運転席でハンドルを握る人。端正な横顔、黒いサングラス、その奥の緑がかった瞳。
「リョウくん、私を好き?」
仏頂面の横顔を覗きこむ。運転席の窓ガラスを通り、太陽がさし込む、リョウを明るく白く照らす。希望なのだと思う。希望のそば、ソノコは幻影を見る。笑うと細くなる、穏やかな目をした人を思い出す。バックミラーを覗き、短髪の白髪頭を撫で、
「明らかに増えたよね、やーだなー」
ほろ苦く笑った人。
「素敵。好きよ」
ソノコが訴えると、Dに置いたギアをPに戻し、ベルトを外すとタカシは丁寧なキスをする。
「じゃあ、これでいいね」
唇を離すとソノコの頬を触れ、潔い笑顔を見せた。
ハンドルを握るリョウの厳しい横顔を見つめ、無意識下で、ごく自然な習慣として「タカシくん元気かしら」と、祈りが胸を満たす。思う度に息を止め苦しくなった頃は過ぎ、穏やかな笑顔や語尾上がりの喋り方を、フィルターを通さず思い出すようになった。その気持ちは、自責や後悔、感傷でないことはわかる、とはいえその気持ちの名前をソノコは知らない。時間が流れても、甘い思い出になることはなく、あんなこともあったと、懐かしい過去になることもない。自分はそもそも、そうすることを望んでいないのだろうと、鳥瞰する。
「リョウくん、私を好き?」
ソノコに目線を向けることなく
「だから一緒にいる。愚問だな」
毅然と温度なく答える。満たされるソノコの心の隅に黒でも白でもないグレーの気持ちがある。「愚問だな」と、リョウは自分に言い聞かせているのだと思う。