株式会社アナザースカイ38

形のよいぽってりとした、よく動く割にかさつきが皆無の、思わず拝みたくなる赤富士のように裾野がなだらかに広い唇。

そっと重ねれば、きっと、ただの愛を「出会ったことは約束された運命」であると思わずにはおれず、数秒後ケンコが唇を離そうとすれば「ずっと離れたくない」と今世永遠に離れまいとさせる唇。
その唇と出会えば、その下にあるふくよかで柔らかできっとケンコズハズバンドより体温が高いであろうなめらかな肩を抱きしめずにはおれず、その胸とはうって代わる華奢な腰にきっと頑強であろうハズバンドが腰をピタリと重ねたくなるのであろう求心力のある、つまり神々しいまでの色気が甚だしいケンコの唇。から、細く吐き出されるウッディーアンド人工的フルーツな香りの白い煙が細く立ち上る。

(なんにせよ口が悪い。口から産まれた魔女め。)

「ねえ。これ、なに?こわいんだけど?洗脳?サブリミナル?なにあんたってこういうの聴くの?てか!リピート!?こんなん聴いていっつも運転してんの?病むわー。病み散らかすわー。こういうの好きなの?いつごろ流行ってたの?ジェネレーションギャップきたわー。

え、まって、ブスのくせに流行りにのってたの?ブスのくせにこんな洒落たの聴いてたの?しかもエロ!アナアナクニクニ言って。やっらしー。あんたって男前風情醸しつつなーんか妙に色気があってやっらしいもんねー。やだやだこれだからブスは。自分の色気に気づかないって。罪深い女ー。ウケる。あ、コンビニ寄って。タバコとコーヒー買うから。あんたは?なんかいる?」

ケンコの唇、そこから吐き出される狼煙。
助手席にケンコを乗せ、後部座席にケンコの息子を乗せ、走る夕暮れ。

暗い眼前にその人を見つめ、途端わいた感情に抗えず、自分でも自覚できるほどに口角があがる。
口角をあげると同時に、口角の動きに抗えず肺から耳に届くボリュームで
「ふっ」
笑いを含む息がもれる。

正味1グラム程度の微々だとしても、もれた息の分だけ頭の痛みが軽くなるような気がする。気がするのではなく、確かに(軽くなった。うれしみ。)と笑う息をとらえた内耳に抗えず、心は軽くなる。

ケンコの母親から譲られなかった思慮深さで、後部座席から、
「てか、あなたのがブスじゃね。化粧が濃すぎんだよ。それ洗ってみ?全力で!負けんぞ。アラタちゃん普通にブスじゃねーし。むしろきれいだしつーか、ブスのひがみこわ。トムトムクラブ。前もあなた聞いてたしな。覚えろよつーか、他人の趣味に文句つけんな。アナアナクニクニてなに?言ってねーし。耳やベーなつーか、あなたの脳みそエロでできてんじゃん?こわ。つか、おとこまえふぜーてなに?ねー、おとこまえふぜーてなーに?」
手元のゲーム機から目を離さぬまま母親から譲られた流暢さと思いやりと男っぷりでアラタを温かくフォローする、バックミラーごしのケンコズ長男。

助手席にケンコを乗せ、後部座席にケンコの息子を乗せ走る。

「ブスじゃねーし。なんかクセになるわね。かっこいいわ。」リピート前にトムトムクラブをベージュに塗られた爪の、美しい人差し指で巻き戻すケンコ。

ケンコと長男を見つめふと、娘たちとケンコの次男はなぜ不在だったのかを思い出せず、思い出せないということは思い出す必要がない、つまり、自分の人生には不要でつまり、自分の人生に不要な思い出と判断し忘れたのだから忘れてもいいのだと、頭痛まみれの脳を慰めるアラタの眼前に、人生に必要だった思い出の火が灯る。

「離婚したいのよね。なんかもう辛くて。限界かも。」

ケンコに腹心を吐露した数ヶ月まえ。
「そう。てか大丈夫?あんた最近ずっと顔色悪いわよ。明らかに痩せたし。そう。そうだったのね。気づけなくてごめんね。まー、あれよ。私にはあなたの家庭のことなんてわかんないし、聞こうなんておもってないし、話す必要もないし。そもそもあなたの辛さはあなたにしかわからないし。
でも大丈夫よ。
あなたブスだけどいいやつだし。私はあなたを愛してる。なにがあっても味方だから。大丈夫。我慢強くて相手本意の優しいあなたが限界ってことは相当辛いのよ。ね。」

煙と共に吐き出されたケンコの言葉たちが、アラタの腹心を空っぽにする。
大量に吐き出されたアラタの産まれ育ちから結婚生活に至るまでの吐露と懺悔を受け止め、ケンコは、
「やり直しなさい、人生。やり直せるから。やり直して幸せになりなさい。」
常の茶化しや笑いのない顔で、瞳でアラタを真っ直ぐ見つめる。
剥げかけた茶色のアイシャドウさえ尊い。

『今日はありがとー。ごはんしっかり食べてしっかり寝て離婚に備えなさいね。トムトムクラブも素敵だけど、ドド聴いて。ドドアンドトーフビーツ。パンチラインしびれるから。』

その夜、それをアラタは聴く。

ケンコの言わんとするパンチラインが一体どの部分なのか。
確認したところでそのパンチに、疲弊し死んでいるであろう心が打たれることはないと、ケンコに確認する気力がわかないまま疑問を疑問のままにイヤホンを耳に突っ込む。

電光石火のアンサー。音源のスタートからゴールまでの全てがパンチの効いたラインであり、だから、干からびた土にみるみる水が吸い込まれるように、ジョギング後のアイソトニック飲料のように、素直で真っ直ぐなケンコの気持ちはアラタの心を潤いで満たす。
美しい音楽に潤う心はまだあることになにより安堵する。

ケンコが言うところのパンチラインは?疑問をまるっと包み込む確信。

自分が知る限りのケンコの人柄からすると間違いなくここ。確信のリリカル。その箇所だけ、音源のさらに奥の音が聴こえる。その音だけが肉厚に水分と酸素を含有して膨らみ、キラキラと輝き、理系的叙情なトーフビーツの声が、命の肩にポンと手を添え慰め労り励ます声がアラタの耳から注がれ全身を包む。

その優しいパンチを、アラタは受け止める。

『悲しいけど
君はもう苦しまなくていい
ニルヴァーナ』


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