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Aさんへ ④

Aさんへ

Aさんこんばんは

長女が先日、クラスメートであり親友でもあるGちゃんの話をしてくれました
Gちゃんはクラスがえをきっかけに初めて知り合った女の子です

長女は毎日、必ずGちゃんの話をするんです

Gちゃんの話をしない日はなくて、ほんのささやかな学校生活でのエピソードなんですが

そのささやかなエピソードのなかにはGちゃんのおてんばぶりが沢山散りばめられています。つまりGちゃんは

世間一般の評価で言えば「わるい子」わたし個人の評価で言えば「娘たちのつぎに世界一いい子」な愛すべきおてんばさんです

Gちゃんのおてんばエピソードに触れ思い出したのです

わたしの祖母は躾に厳しい人で、箸の持ち方ひとつ挨拶ひとつにしても震え上がるほどに厳しく、これは謙虚でも謙遜でもないのですが祖母から褒められた記憶はひとつもありません

こと他人への対応には確固たる信念があったように思います
他人ではなく他人様、人様

玄関でお客様を迎え入れる時は『お膝をつきなさい。』正座にて恭しく……
立ったまま「こんにちはー。」などとした日には横に鎮座した祖母の鉄拳が飛びます
ピシャリと私の太ももを叩き『お膝!』

いまも記憶に残る祖母ご自慢のパワーワードのひとつに
『神様に失礼』
があります

お米の神様
勉強の神様
台所の神様
便所の神様

木の神に水の神
木を切る庭師職人が握るノコギリには刃物の神が、水を飲むためのコップには食器の神が。暮らしの細部の末端にまであっちこっちに神はおられ神の飽和状態
そこまでとなると揉め事は起こらぬものか……と、治安がいいんだかわるいだかと、幼少の小さな胸はにわか不安でいっぱい

天には天の、地には地の
ありとあらゆる万物、至るところに神様はおられしたがって大切にせよ。と申すのです。いわゆる八百万の神
もはや神様不在の場所は圧倒的に少なく、どこでなにをするにも地味に緊張が走ります

私が祖母から言い伝えられた神様あるあるの中でもなぜか一番心に残っているのは

ある冬の極寒日、さむいさむいとストーブに背中を向けたときです
手の届く距離にいた祖母の鉄拳ならぬ鉄口から心臓一発仕留める勢いの火の玉が飛び出しました

『ストーブには火の神様がいる!その神様に尻を向けるとはなんたること!』

アラウンド冬至ですとこちらの冬の気温は零下となります
寒い地域に住まう人間は寒さに強い。という、どこから発生したのか知れぬ寝言のような、誰も傷つけることはないけれど寒冷地に住まう人間が寒いと発することに妙なプレッシャーを加える妙な伝説になにより一番の寒気を覚えます

寒いものは寒い。ふつうに超寒い

東北地域在住の人間であろうと九州地域在住の人間であろうと、北海道でも沖縄でも、零下は普通に鬼寒い

寒さに慣れる。などということが果たして本当にあるのでしょうか。何度経験しても傷つくことには慣れない失恋と同じように

「ストーブに尻を向けるな……だと?……こんの、老いぼれくそばばあが!こっちはただでさえすきま風の絶えないぼろやに住まわされ身も心もブルブルじゃボケ!」

とは申しませんまでも、多少はカチンとくるのです
ストーブ様と向き合ったままでは身体の前面だけが温まる一方一向に背面は冷えたまま、この世知辛い寒々しい世の中でほっこり背中を温めることも許されぬのか……と

しかし、そこは地震かみなり火事ばばあ。ですから

「ごめんなさい。」

と謝り、すぐさまクルリンパとストーブ様にも心中にてごめんなさいするのです。焼け焦げそうな前面の顔面を涙が落ちそうになるのをこらえ「がぜん腑に落ちん。」気持ちを腑に落としひたすら身体前面ホカホカ計画に注力いたします

なにかっちゃあ神様神様と、御用聞きのでっちじゃあるまい、カジュアルにラフに『ごはんつくるのめんどいから寿司かピザ頼んじゃお!』的に神様を引き合いに、伝家の宝刀ここにありとこれぞ困ったときの神頼みと
幼少ながらも小さな体の小さな心のなかに「なにげにいちばん扱いが雑なのあなたじゃね?」ともやる溜飲をも腑に落とすのです。なんせ地震かみなり火事ばばあ。ですから

言葉の神様

言霊って言葉がありますけれど、幼少から祖母に叩き込まれたお陰で、神様はラフにカジュアルにいつもそばにいてくれた存在ですので言霊と呼ぶより言葉の神様とお呼びするのがわたしには自然なことなのです

音楽の神様
スポーツの神様
勉強の神様
仕事の神様
絵の神様
写真の神様
料理の神様

あまたおられる神様のその中でわたしが一番近くにいてほしいのは言葉の神様です
いつも一番近くにいて肌身離さず命がなくなるその日まで大切にしたい言葉の神様。私にしたら言葉の神様は命そのもの

私のイメージですと言葉の神様は

遅くも早くもなく
熱くも冷たくもなく
受けとることには興味がなくて、与えることがすき
与え受けとった相手から「ありがとう」をかつあげしたり、おねだりすることがなく、そもそも「ありがとう」に興味がない

「癒された」
「救われた」
「助かった」
そのどれもピンとこなくて一番嬉しいのは
「きもちいい」

癒されたも救われたも助かったも、言葉の神様にしてみたらちょっと荷が重い

きもちいいが一番しっくりちょうどいい

「ありがとう」「癒された」「救われた」「助かった」が、ダイヤやルビー、エメラルドのように大切にされて宝箱に入れ家宝として代々受け継がれる宝石だとしたら「きもちいい」はそこら辺に転がっている石ころ

子供のころ道ばたでなんとなくふと偶然みつけて、偶然みつけたその石ころを手のひらにのせ眺めてみたら妙に愛着が湧いてそのまま家にもち帰る

まわりの誰かに見せたら『ただの石じゃん。』と言われるそのただの石が、自分にだけはわかる、自分にしかわからない魅力と愛着があって「これは私だけの宝物!」になる

捨てたくなくて、かといって大して大切に扱うわけでもなく
時々思い出して「やっぱいいわ。」と時々眺めてまた忘れて
忘れているうちに気づけばどこかにいってしまったのか、母親が捨てたのか、無くしてしまう

ふと「あれ?あの石は?」と思い出して、オモチャ箱や家のなかを探すけれど見つからなくて「なくなっちゃった」って少し残念に思うけれどすぐ「ま、いっか」って
その石が自分だけの宝物であった事実だけが心に残る
軽くも重くもなく、なんとなく心に残る

拾った時の弾ける躍動はいずれ薄れほっこり懐かしい追憶に変わる

言葉の神様が与える「きもちいい」は、家宝になるような宝石ではなく、あってもなくてもなんとかなるけれど、あれば「なんかいい。」くらいのそこら辺にいくらでも転がっているただの石ころ。

言葉の神様は

受けとった相手が気持ちよくなることがなにより大切
だから実は主観や私情やこだわりがなくて打算も損得もない
一般論も体裁もなくて
ちなみに嘘は一番嫌い
嘘のつぎにお世辞と社交辞令が嫌い、正論と机上の空論を目の敵にし、たまに愛が高じて相手を思うがゆえに黒を白とする暴論ぶちかます

つまり、本当の言葉だけを与えるのがすき

でも実は言葉の神様の実力に気づいていないのは誰あろう言葉の神様自身なんです
言葉の神様はご自身に興味がないから
興味があるのは言葉を与えた相手の「きもちいい。」だけだから

前述のGちゃんは日々おてんば活動に余念がなく、先日ついに、元おてんばの私でさえも
「うーむ。Gちゃんそれはいかがなものか……おてんばが過ぎやしないか。」
という、世間一般様はもちろん、私の眉間にさえもシワを集めるハプニングがありました

私が世間一般的な良識ある母親風味を醸し善良なアンチとして水を長女に向けました。すると、長女が下を向き、なんとも柔らかい、太陽をさんさんと浴びた布団のような柔らかい笑顔を隠さぬまま、うつむき

「そうだね。お母さんの言いたいことわかるよ。でもさー、私どうしてもGのこと嫌いになれないのよ。なんかさ、Gって、なんかいいんだよね。」

お母さんには言えない、お母さんだからこそ言いたくない。そんな、無意識無自覚な親離れの心境を含有した確固たる意思のある声で、なにかを。フレッシュな躍動は長女の血肉となって長女を支えいずれもしかしたら淡い追憶に変わるかもしれないなにかを

言葉の神様がGちゃんから長女へ本当の言葉を与えたくださったのかもしれないと、私はただ笑って、笑うしかなく、長女へ伝えるべく気持ちを表す言葉は結局、見つけられぬままただ笑いました

Aさん、いつものことながらとりとめなくオチが皆無のよた話が長くなり失礼致しました

現場からは以上です

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