株式会社 アナザースカイ 20

舌打ちのあと、

「出てくる。泊まる。お前の顔見てんのきついわ。あー、悲劇のヒロインとかなしな。頭悪いけど知ってるよね?

お互い様

って言葉と意味?おーたーがーいさま。ね?てか、聞こえてんなら返事してもらっていすか?
お互い様。知らないなら調べといて。じゃ、お疲れさまです。」

夫は車の鍵を握った。

夫の白髪が増えた髪を、色気と言えなくもないグレーの頭髪を見つめ、血色のよい横顔を見つめ、肉付きのよい腹を見つめ、真っ直ぐ伸びる姿勢のよい背中を見つめ、見送り、アラタの脳裏には、

『ちょっと、ちょっとちょっと』

双子の兄弟芸人が浮かぶ。手を伸ばす。

15年前に、正確には交際を受け入れた16年前に『ちょっと待て』と自分に手を伸ばしたい。

それでも。

伸ばした手を自分はきっと瞬時に引っ込めるのだろうとアラタは思う。
『こんなはずではなかった。』
と、タラとレバを並べて振り返る自分に虫酸が走る。
行き先も目的も告げす度々家を空ける夫の言動と同じくらい、虫酸が走る。

『出てくる。』と鍵を握り家を出た夫が車に乗り込み、エンジンをかけるより先にスマホを手にしていることを、ダイニングの窓からアラタは確認する。
家政婦的熱視線ではなく、レースのカーテン越しに身を隠すことなく、車中の夫を冷視線で確認し、窓から離れる。

(水曜日。一週間で唯一の。)

ラインを飛ばすことに集中しているのであろう夫は、アラタが窓から見ていたことには気づかない。

いる?これからいっていい?会いたい。今夜は泊まるから。今日はめちゃくちゃ抱きたい。お前もしたいでしょ?愛してる。したいしたいしたい。

かつて自分に届けられたメッセージのそのどれかは、ツンデレのデレをフル活用したピロートークさながらの甘いメッセージは、きっと、今頃どこかの誰かへ水曜日が休日の誰かに届いている。

(こんなベタなパターンあるのね。)

夫が使用する四駆の後部座席。

数ヶ月前、座席シートの下から避妊具のパッケージの欠片を拾い上げ、アラタは、娘より先にそれを見つけた自分を褒めた。

自分とのセックスには避妊を面倒くさがり、事前のシャワーを面倒くさがり、前戯を面倒くさがり、体力を消耗する体位を面倒くさがる冷凍マグロで賢者な夫とのセックスを反芻し、自身の気分によっては執拗でSな支配と自己顕示のゴリ押しを反芻し、しかし、拾い上げたパッケージの欠片を几帳面にティッシュペーパーに包んでゴミ箱の奥深くに捨て葬った自分を褒めた。

乱暴乱雑思い遣り皆無なセックスの明朝には思わず息を詰めるほど排尿時に下腹部が痛み、便器の中が赤く染まった。
それでも、求められれば応じる自分を、アラタは盛大に褒め、褒め倒し、褒め散らかし、一粒も涙を溢さない自分を褒め称えた。

『どこの夫婦もそんなもん。』
『そんな身勝手なことして子供は?』
『子供から父親を奪うの?』
『子供たちになんて説明するの?』
『いいわね。今どきのひとたちは。私たちの時代には離婚の選択肢なんてなかったんだから。羨ましいわ。』
労いの一言もなく、娘の握るジョーカーの、『ジ』を聞いただけで話の全容を理解したような浅い思慮で、薄ら笑いで娘の身の上より先に孫の行く末を案じ、自身の苦労話と『そんなことくらいで離婚。寝言おつ。』と女失格の引導を手渡した母に、開口一番に、

「ごめんなさい。」

と伝えた自分を褒めた。

実家からの帰り、ぼんやりと車を40キロで走らせながら、ハンドルを握りながら、母親に労いや慰めを望み求めた愚かさとそれを見事に振り払われた滑稽さをきちんと全部受け入れ、
(愚かアンド滑稽選手権日本代表。)
きちんと認めた自分を褒めた。

涙を流さず自宅への帰路を安全運転ができている自分を、赤信号で止まる自分を、右折車をパッシングで譲る自分を褒めた。

ラジオをつけた。

運転席の窓を全開にし、冷風に踊る髪を耳にかけ、残り3枚の窓を全開にする。
禁煙を解禁した車中でタバコに火をつける。
1ミリメンソールの吸いに吸っても、肺に到達しない不爽快感にまみれて尚、

『エジプト行きた。エジプトでらくだにのってそのままピラミッドに葬られた。』

タバコの箱のエレガントなコブを見つめ尚、

『えー、明日てお弁当の日じゃん。今日のメンチおべんとにつかお。』

と、ピラミッドには向かわず我が墓場へ向かう自分を、
「遅くなってごめーん。ごはんすぐするー。」
と玄関をあけ、まずは娘たちに謝るであろう自分を、
「お弁当ねー、今日のメンチコロッケ入れちゃう入れちゃう。ごめんね。」
と謝るであろう自分を褒めた。

アラタは肺に届かないままの煙にため息を混ぜ深く、深く吐き出す。

ラジオから蝶々結び。

ラッドではない女の儚い声。

ご縁や運命の奇跡や、ソウルメイト的前前前世からの根深い絆を歌うその歌詞の

『この蒼くてひろい世界に無数に散らばったなかから
別々に二人選んだ糸をお互いたぐりよせあったんだ
結ばれたんじゃなく結んだんだ』

の美しさに、アラタが見据えるフロントガラス越しの景色は歪んだ。
前方のテールランプの赤が、縮んだり伸びたり。

ゴートゥーダイなこの期に及んで、美しさに涙を流せる自分の心の美しさをアラタはひっそり、褒めた。


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