生きていく。【chapter34】
「リョウくんは覚悟があるよね」「それ、愛だよ」「大好きだよ」。タカシの声を聞きながらリョウは、ソノコの細い指を骨ばった大きな手で強く握る。
ソノコの中、一番奥、深く動く度にかすかに眉をひそめ、苦しそうに息をもらすソノコをリョウは見つめ頬に唇を落とす。
こんな優しい目をする時もあるのね。リョウの緑がかった瞳を、出逢ってから一番近い距離で見つめ「近くで見るともっときれい」と思う。ソノコの耳元で甘く低く、辛うじて聞きとれる音量で気持ちいい、と数度温かい声をもらし、ごめんね、と誰に向けてなのかわからない声色で、一度だけ呟く。
優しいと思った。優しい抱きかただと思った。常のぶっきらぼうな態度とはずいぶん違うと、ソノコは思った。
ずいぶん違う。
ソノコは眉間にシワを寄せる、苦しそうなタカシの顔を思い出す。
ソノコを睨むと獣のように肌を噛んだ。耳元でタカシの吐息がもれる。苦しそうな吐息。それだけは聞き慣れた音だった。それまでソノコを幸せに包んできたタカシの、甘い吐息。名前を呼んでも答えてくれなかった。とても悲しい声で愛してると、好きだと言った。出会わなければ良かった、と。かつて見たことがない目でソノコを見つめ、二度と会わないと言った。最後のキスは思い遣りのキスだった。ごめんね、と。二人を、と言いかけて口を閉ざした。タカシの最後の背中、最後のライン。
本屋で再会した時のタカシの笑顔が浮かぶ。
高校生の時と変わらない、笑うと細くなる眠そうな目。白髪、濃紺色の半袖ティシャツ。
「心臓の音、聞かせて。ちゃんと動いてるか確認しないといけないから」
ソノコの胸に顔を埋めたい時、変な動機をこじつけ甘えて裸の胸に耳を当て心臓の音を聞いていた。
「ちゃんと動いてる。生きてる、生きてる」
「そう。それは良かったわ。ありがと」
二人でクスクス笑った。幾度と胸の中にタカシを抱いた。リョウを抱きしめながら思い出す。
気づくと涙がこめかみを流れ耳を濡らした。リョウは笑みのない顔でソノコを見つめ、こめかみの涙を拭うとソノコを抱きしめる。しがみつくに近い抱きしめかただと思う。どんな気持ちを逃がし、逃れたいのか、ソノコを抱きしめることでなにをすくいとりたいのか、なにを決意しているのか、伝わる抱きしめかただった。
夕方すっかり乾いた清潔なシーツを、ベッドに戻した。終わりかけた夏の、天日をたっぷりと浴びたいい匂いがする。今夜はこの匂いに包まれて眠ることが出来る、リョウの事を思いソノコは安心した。
二度目はソノコから誘った。
ポケットに手を入れ外を見つめているリョウの、二の腕にキスをした。リョウはゆっくりソノコに顔を向け、
「平気?」
お腹がすいたの?と聞くような声で確認し、ソノコはうなずいた。
リョウの太ももの上に身体を預け、ソノコは窓の外を眺める。リョウのかたい肌は、太陽を沢山浴びたシーツのようにサラリとして気持ちがいい。窓から美しい空と雲が見えた。似た空をかつてタカシと見たことを思い出す。雲海を泳ぎ二頭のクジラは北の海を目指す。自分はどこへ向かえばいいのか分からなくなる。それでも苦しい明日はくる。
翌日、リョウより先に起きたソノコはリョウを起こさないようにそっと身体を起こし、ベットの上から外を見つめた。
開いたままのカーテン。前夜カーテンを閉じようとするリョウにソノコは「そのままにして」と懇願した。これ以上孤独になるのが怖かった。二人でいるから孤独は深まり、夜は闇をつれてくる。このマンションの箱のなかでカーテンさえも閉ざせば、ソノコは世界からも断絶され圧倒的に一人になる。そんな気がした。怖かった。リョウはカーテンをそのままに、ベッドに入りソノコにキスをすると「おやすみ」と天井を見つめていた目を閉じた。
夜明け前。
窓の外からリョウへ、ソノコは視線を泳がせる。タカシの夢を見ているのだろうか。リョウの顔は苦しそうに見える。リョウの肩にそっと布団をかける。朝が来る前の外はまだ暗い。
音のない雨。世界も隣のリョウもまだ、眠りの中。エアコンのタイマーが切れた部屋は音がなく、ただ四角い静寂だけがある。
深海のような、夜明け前のネイビーの空が泣いている。ひとりだ。とソノコは思う。
「もう会わない方がいいかもしれない」
ソノコの背中からリョウの細い声が、朝の暗闇のなかに浮かび消える。
ソノコは振り向かない。
緑がかった瞳は、暗闇にソノコの白い背中を見つめているのか、閉じられたまぶたの暗闇を見つめているのか。
もう会わない方がいい。同じことを考えていた事実にソノコは少し驚く。
「ソノコ」
リョウの誠実な声。初めて出会った日、ソノコの名前を綺麗だと褒めた上品で甘い声、揺るがない感情を伝える断定的な声。
「俺と、出会わなければ良かったな」
出会ってしまえば好きになるのは必然だったのだと、今になればわかる。やっとみつけた、ここにいたのか。とリョウはソノコとの時間を重ねるごとに思った。ソノコに出会うため俺はタカシを利用したのだと。
「ごめん。全部を後悔してる」
誰に向けているのかわからない一人言のような、リョウの声。ソノコのほほを涙が流れたが、暗闇を見つめるリョウにソノコの涙は見えない。
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リョウはタカシのモノは何でも欲しがる。すばしっこくて目ざとく「ゆだんもすきもあったもんじゃない」と小学生のタカシは思っていた。タカシが新しい文房具を買ってもらうとすぐ気づき「おれも!」と騒ぐ。騒ぐだけなら良いのだが「ちょうだい!」とタカシが目を離したすきに奪っていく。「おれんの!」と。タカシは心の中で「俺もお兄ちゃんが欲しかった」と呟く。
しかし、タカシはリョウがかわいかった。
生意気でやんちゃで気が強い。それでいて自分の中に正義があり、筋のとおった事を好む。上級生でも食ってかかり、タカシはいつもヒヤヒヤする。同級生から疎まれることも多々あるようだった。それでも、タカシはリョウがかわいかった。温かく、優しい心をもっていることを知っていた。まっすぐ通った男らしさがあることも。
学校から帰って来るとリョウは、すぐ遊びに行く。まず先に宿題を片付けるタカシに、
「かたづけといて!」
と偉そうに言いつけ飛び出して行く。
ふたが開きっぱなしのランドセル。
教科書の表紙が、あらぬ方向に折り曲げられ、ぐしゃぐしゃのプリントが散らばっている。一度も濡れたことがないであろうハンカチが、三枚も四枚も出てくる。タカシは宿題を中断し、渋々それらを片付ける。教科書をランドセルにしまい、プリントを揃える。
【じぶんについて】という題目のA四のプリントを何気なく、上から眺める。
【名前】【誕生日】【好きなたべもの】【好きなあそび】【好きな教科】。「さんすう。」という、辛うじて日本語とわかる汚い字を見つめ、眉間にシワを寄せると「どこが!」とタカシは思わず口に出す。
最後の【たからもの】の欄。生命力の強いミミズが這う、力強い二Bの文字。
「たかし。」
タカシはしばらく黙って見つめると、プリントのシワをきれいに伸ばし他のプリントと一緒にまとめ、トントン!と整えると丁寧にリョウのランドセルに全てを戻す。