株式会社アナザースカイ31

茶色の、2本の小瓶に貼られたラベルのそれぞれ。
ピンクとパープルを見つめる。
(ピンクのこは……カシスエンオ、レンズィフレーブァー。パプォは……。


カシオレ。カシオレ?カシオレ。

ちがうわ、違う違うカシオレ。すみれ、すみれ色。バイオレット。バイオレットフィズよ。)

夫と出会った飲み会。

乾杯のビールのあともう一度ビールを注文した。ような気がするが定かではない。なんにせよアラタは金曜日の夜を着飾る役者に、ビールの次に、大人な色気色のカクテルを選んだ。

コースターの上に置かれた華奢なグラスに、なみなみの水面に、健気に浮かぶ食用花を、

(かわいいー。こういうことよねさりげない気遣い。100本の深紅の花束より素敵よ。可憐。とっても素敵よ。)

しばしうっとりと眺めた。

横で、煙を吐き出しながら

「邪魔くさいね、それ。」

アゴで花を指したのが夫だった。

右手にラッキーストライク。左手をアラタが座るイスの背もたれに、左の腕を載せながら。左手の指が、人差し指か中指か知れぬ女のように美しいその指が、左の肩に触れていることは、

(頭の回転が早ければ口も手も早い、挙げ句酔うのも早かった。笑。違うわね。酔ったふり。お酒に酔ったふりして自分に酔ってた。人のこと言えない。こっちも演出まみれの大根役者よ。本音の演出に演出でのっかったのは私よ。)

バイオレットフィズと出会う前から気づいていた。

アゴで指された花を、ゴールドのラメで丹念に着飾られた親指と人差し指で摘まみ、生春巻を浸すためのチリソースで汚れた皿に置いた。
パープルともバイオレットとも呼べる、曖昧な色気が香る花弁を摘まむとき、摘まんだ爪の、甘皮をきちんと削ぎマットなベージュに金色のラメを施した爪の、軽薄でちんけな偽りの美しさからアラタは、現実逃避の腹積もりで視点を変えた。

「邪魔くさいね」と投げかけられた言葉に肯定も否定もしなかった自分を、ただ口角を上げ隣を見つめ返すに止めた自分を、アラタはその金曜日の夜、眠りに落ちる直前、思い出した。可憐な花弁に後ろめたい気持ちで。

(舌打ち。)

忘れられないことは積もる雪なのだと思う。放っておけば雪はいずれ、分厚い氷になる。

若い女店員が飲み物をテーブルに置くとき、数滴がグラスから飛び出し、テーブルを濡らした。
アラタの耳は拾うつもりのなかった微かな舌打ちをきちんと拾った。舌打ち。舌打ちそのものより、抱いた嫌悪は舌打ちそのものではなく、舌打ちのタイミング。
女店員が離れたことを見計らったタイミングで放たれた舌打ちに対してだった。その数秒前、女店員を見上げ「ありがとう。」と伝えた同じ口から出た舌打ちにだった。

夫と出会ってしまったその夜アラタは、演出として美しいカクテルを選び、安定不動のレッドアイには手を出さなかった。

演出も計算も、なにかを得るためには必要なことで、そして、なにかを得るためにはなにかを失うのだと、薄々気づき始めた30目前。
あの夜、幸せらしきものと引き換えに失ったものは自分らしさ。つまり自分そのもの。
どんなバカでも3秒もあればわかることに15年を要した。
(結婚する前は両目で見据え、結婚したら片目を閉じて相手を見よ。私、右しかウインクできないわ。左が1、5だし。)
なにかを得るためにはなにかを失う。その言葉の呪い。

(パープルはなにフレーバー?)


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