株式会社 アナザースカイ 18

興味をもっていない人間に労力をつかうことが、1分といえ1秒といえ、勿体ないと思う。
そこに1年どころか数年を費やした。
報われないどころかゴミのように扱われた労力が蘇れば、アラタの胃液は沸々と沸騰し逆流する。
(胃液なんだか、煮え湯なんだか。なんにせよ腹パン。)
思わず、ここしばらくデフォルトである傷みに右の手を添える。痛みに届く前に浮き上がったあばらに辟易する。痩せるときは必ず胸から上半身が痩ける。
気持ちを奮い立たせアラタは、右の手に念を込める。
(持ちこたえて。いけるから。余裕だからこんなん。頑張れ、頑張れ、私の体。及び私の胃。こんなところで病人さながらくたばってる余地はないのよ。)

労力も時間も有限だから。許容力も。体力も精神力も。
そして、どうやら人生は思いの外短いらしい。

ただ。

感情度外視で、
感情だの激情だの心情だのの前に、それらがクツクツと沸き起こるコンマ1秒前に、意識ですらない場所からアラタの心を満杯にし蝕むコマンド。それは、
「忘れないのではない。忘れたくとも忘れられない。」
思わず奥歯を噛み、親指を中に包み震えるほど強く握る拳。

夫が吐き出す『記憶力半端ないよね。』は、気味悪く歪ませた笑顔の奥の真意には、執念深いや、粘着質、いつまでもごちゃごちゃと昔のことを。をはらんでいる。
人の記憶力をくさす前に己の想像力を……と思いかけ、捨てた。「どうでもいい。一切全て全力でどうでもいい。」

最近のアラタの思慮の着地点には「どうでもいい。」があるし、たいがいがそれで片づく。


夫からの『はい?離婚?しません。』に、
「わかりました。今日はもう閉じましょう。でもごめんなさい。私の気持ちは変わりません。また期間を置いて確認させてもらいます。」
アラタは潔く手札を一旦引っ込めた。

トランプ
ババ抜きレペゼントランプ。
53枚。
キング、クイーン、スペード、ダイヤ、ハートを含有する52枚を相手に渡し、残りの1枚を自分の手札に。

「どうぞどうぞ」

と、ダチョウの、倶楽部のフリではなく遠慮でもない先手を譲り、唯一の手札を引いてもらう。

唯一の1枚。その名もジョーカー。

『妻だの母だのって世の中で一番おいしい肩書きよな。大したことしてなくても妻として母として生きてるだけで評価とか同情とかさ全身全霊で浴びんのってやっぱ気持ちいいもんなの?』『夕飯これだけ?』『私がやるから私がやるからって。口ばっかよな。そんな言うなら俺が帰ってくる前に掃除くらいしとけよ。』『布団の中からオモチャ出てきたんですけど。一日中家族のために働いて、ドロ袋みたく帰ってきてもさ、休まらないよね正直。』『生理だか膀胱炎だかっていつ終わんの?いつになったらできるわけ?いいよね。体のせいにして女の責任から逃れられる人は。羨ましいわ。ていうか、それってうつんの?』

夫が握るそんな粗末なキングより、クイーンより、スペードより、ハートより。
それらより強い1枚で勝負はつく。
それらを凌駕する1枚。
夫が見逃し見過ごし見ないフリをしてきた1枚。

『ジョーカー』のインパクトはディープに芯を貫く。
アラタは、ジョーカーを切り札に、離婚を決めた。
『離婚理由は?』
と今、問われれば淀みなく一点の濁りもなく、
「生きるため。」
と答える。

ゴミのように握り潰され無きものされた尊厳は、妻や女としてはおろか、家政婦以下もはや人としての扱いを受けなかったアラタの尊厳は。
生きる上で命と大差ないそれは、風前の灯。空前絶後の虫の息。
蟻のため息ひとつで、消える。


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