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チッテで愛してる#9『温度』


 僕は目が覚めた、薄暗い部屋にカーテンの隙間から強い日差しが差し込む。布団からジャスミンの匂いがした。僕は左腕の中に居るはずのジャスミンを探しす、しかし、この部屋にジャスミンは居なかった。分かっているのにもう一度2人の部屋を見渡す僕、いつもと変わらない部屋なのに今朝のこの部屋にはどうしても現実味がなかった。時計を見ると、もう13時を過ぎていた。僕はカーテンを開け、絵はがきのような雲一つ無い真っ青の空を見上げる。それは見たくない日々の始まりだった。

ジャスミンはまだ怒っているだろうか?あんな事をして部屋を飛び出した僕の事を…
 ジャスミンは今、留置所にいる。面会もできない。喧嘩をしてこの部屋を飛び出してからまだジャスミンの顔を見ていない。ジャスミンに、あの日の事を今すぐに謝りたかった。あの日言えなかった言葉を口にした。

「僕も愛しているよ..」

それは独り言になってこの部屋から消えた。

僕は、綺麗好きなジャスミンを喜ばすために部屋の掃除を始めた。ジャスミンが今日帰って来るかもしれない。ジャスミンが帰って来るまでの時間を、ジャスミンを喜ばせるために使いたかった。カーテンをコインランドリーで洗い、タンスや、テレビの埃を落とし、何度もほうき、雑巾掛けをする。掃除をしていたら、悲しい気持ちも忘れられた。布団は干さなかった。ジャスミンの匂いが消えてしまわないように。部屋が少しずつ綺麗になっていくと何だか嬉しくて充実感もあった。この部屋を見たらジャスミンは驚いて笑うだろう、そんな想像を繰り返ししていた。ジャスミンの笑顔に少しずつ近づいている、そう思うと掃除をする手は止まらなかった。この日は心地良い疲れと、明日ジャスミンと口にする食事の味を思い浮かべて眠った。

次の日
朝目が覚めた。布団からジャスミンの匂いがする。僕はジャスミンを探した。ジャスミンはいなかった。

今日は解体のバイトだった。しかし、今日ジャスミンが帰って来るなら...
誰もいない部屋に帰って来る、そんな事にはしたくなかった。僕はバイトを休んで、部屋の掃除をした。下駄箱の中に、トイレのフローリングに、換気扇、丁寧に、丁寧に掃除をした。この日、疲れて倒れるように僕は眠った。

次の日

朝目が覚めた。布団からジャスミンの匂いがする。僕はジャスミンを探した。ジャスミンが居ないと分かっていたのに。

涙が流れる前に、掃除がしたかった。何も考えないで掃除をする場所を探していた。しかし、この部屋に掃除をしていない場所は無かった。もともと綺麗な部屋だ、どこにも汚れが無い。僕は1人座り込み、ふと顔を触る。髭が伸びていた。二日シャワーを浴びていない。気がついたらお腹が減っていた。一昨日の昼からコーヒーとタバコしか口にしてい事に今気が付いた。ジャスミンはいつ帰ってくるのだろうか?ジャスミンに会いたい。今会いたいんだ。ずっと考えないようにしていた事が勢いよく頭に流れる。泣きたくないから、汚れていない台所を磨いていた。どんなに磨いてもこれ以上にシンクはキレイにならなかった。僕の何倍もジャスミンは怖くて、寂しいんだ。泣いている時間があるならなにかをしていたい、ジャスミンが喜ぶなにかを。その何かが分からなくて僕はただシンクを磨いていた。

 その日のお昼も。警察署の留置係に電話をした。明日、やっとジャスミンと面会ができる事が分かった。急に体が軽くなって、世界が進むスピードと僕の鼓動のスピードに違和感がなくなって、つけっ放しのテレビのニュースに関心が沸いたりした。止まっていた時間が動く、そんな表現でしか聞いたことの無い感覚を人生ではじめて味わった。あと1日我慢すればジャスミンに会えるんだ。写真じゃないジャスミンを見れるんだ。秒針が進むのがじれったい。じっとして居られなくて、ジャスミンに差し入れする手紙と服と2人の写真、紙とペンをバックに詰め込んで、手紙を書いた。この日、僕は倒れるように寝た。

朝目が覚めた。布団から、ジャスミンの匂いがする。少しの期待から、強く目を閉じた。僕の左に眠るジャスミンを探した。ジャスミンは居なかった。分かっていたけど悲しくなった。しかし、ジャスミンは僕の何倍も悲しいんだ。今日の僕は昨日とは違った。朝起きてシャワーを浴びて、髭を剃った。髪型を整えて、一番お洒落な服を着る。ジャスミンへの差し入れでパンパンのバックを背負ってジャスミンに会いに行く。バックは重いが足取りは軽かった。3日家を出ていなかった。日差しが心地い。昨日は日が上のが憎かったが。今日は違う。ジャスミンに会えるんだ。ジャスミンに会いに進む道はいつも長くて、いつも短くて、目に入るものを全てドラマに変える。
 ジャスミンに会いに行く途中でジャスミンへプレゼントを買った。かわいい下着を買った。女性は下着から変わると聞いた事がある。このプレゼントでジャスミンのホルモンバランスが整えられたらいいな。そんな期待を胸にジャスミンの元へ歩く僕を、温かい風が包む。長かった冬は終わり、もう5月だ。ジャスミンあなたの好きな夏がもう時期来る。僕は走っていた。走った分だけ長くジャスミンと面会できる気がして。

警察署に着いた。
僕は1人、重い鉄のドアを開けて面会室に入った。4畳ほどの窓のない部屋を真っ二つにアクリル板が隔てていた。アクリル板の向こうとこちらにパイプ椅子が2つずつ並んでいる。僕はパイプ椅子に座った。もう4日ジャスミンに会っていない。
やっとジャスミンに会える。やっとジャスミンを感じられるんだ。ジャスミンはまだ僕を怒っているだろうか?こんな場所に閉じ込められて不安で泣いているんじゃないか。ジャスミンの不安を少しでも軽くしてあげたかった。ジャスミンあなたに言いたい事がいっぱいあるんだ。僕は不安と心配と嬉しさから、立ったり座ったりを繰り返していた。


鉄のドアが開いた。ドアの向こうから一人の警察官が入ってきた。警察官は体が大きくて、怖い顔をしていた。 遅れて僕の視界にジャスミンが入った。ジャスミンはひどく泣いたのだろう、目が真っ赤で目の周りは腫れていた。涙の跡も消えていなくて、髪もボロボロで髭も伸びていた。ジャスミンが席について僕の顔を見て言った。

「コセ」

そう言ってジャスミンが笑った。いつもの笑顔で。僕の愛している人は、美しかった。ジャスミンの笑顔を見た瞬間、僕の体を締め付けていた不安や心配なんて何処かへ消えていた。目の前にジャスミンが居るそれだけで僕も笑顔になった。嬉しくて体が勝手に動いた。目の前の美しい笑顔に触れたくて僕は手を伸ばした。”バン”音がして、伸ばした手はアクリル板にぶつかり、伸びきらなかった。

ジャスミンが笑ったまま。アクリル板越しに僕と手を添えた。手を添えたジャスミンが笑顔のまま涙を流した。僕は声が出なかった。

「あの日言えなかったけど。僕も愛してるよ。あなたに出逢ってから、あなたを愛していなかった日なんて無いよ...」

そう言いたいのに。そう叫びたいのに声が出ないんだ。アクリル板越しに添えた2人の手を見たら、涙が止まらない。そこにあるはずのジャスミンの手の感触が伝わってこなくて。そこにジャスミンがいるのに。手と手とを添えているのに、僕とジャスミンを隔てたアクリル板が冷たい。ジャスミンが目の前に居るのに、こんなにも愛し合っているのに、この1センチの距離が超えられない。真っ暗な道だったんだ。何も見えない真っ暗な道で、2人で拾い集めて形作った愛なんだ。その愛もこの1センチは超えなかった。この1センチが全てを消してしまう。そこにジャスミンが居るのに。お互いに添えた手から、温度が感じられなかった。ジャスミンの手が冷たくて現実味が帯びなかった。写真をなぞっているようだ。触りたくてもジャスミンに触れられない、そこに居るのに...
 絶望だ、この1センチがもどかしくて涙が止まらない。僕は知らなかった。恋愛にこんなにも温度が重要だったなんて。


ここに来ればジャスミンに会えるそう思っていた。しかし違った。でも、泣くんなら1人で泣けばいい。ジャスミンに言わないといけない事がいっぱいあるんだ。ジャスミンを笑顔にできるそんな言葉。頭を回し、涙を拭う。僕はジャスミンに言った、涙で何度も声を詰まらせながら。

「二人の部屋であなたを待ってるよ...部屋も掃除したよ。お風呂も、トイレもベランダも全部ピカピカだよ...だから早く帰って来てよ...坊やが見たいって言ってたDVDも買うよ。あなた何が食べたい?ここじゃ美味しいもの食べれないでしょ?あなたのためにカレーも作ったんだ。冷凍しとくから。他に何が食べたい?僕作って待ってるよ。」

それを聞いたジャスミンがボロボロと大粒の涙を流しながら大きな声で言う。

「私のこと待ってないでよコセ。」

「どうしたの坊や?」

「あなた、痩せすぎてるよ...怖いよ。 前から痩せてるのに。今は骨と骨だよ。このままなら死んじゃうよコセ。ご飯も食べてないんでしょ?私の事ばっかり考えてるんでしょ?嬉しくないよ。」

「僕の事はいいよ。絶対にここから出してあげるから。大丈夫だから。」

同席した警察官が大きな声で言う。

「もう時間だ」

僕は警察官に言った。

「あと1分だけ」

そしてジャスミンに早口で話す。

「安心して、何も考えないで笑って。絶対にここから出してあげるから。バイトも増やして弁護士の先生にお願いするよ。」

「やめて、今よりあなたバイト増やしたら死んじゃうよ。お願いコセ、私の事は考えないで。」

「考えるさ...考えるよ。毎日あなたの事だけ考えてるよ。愛してるんだよジャスミン。今は悲しい事がいっぱいある。だけど僕が全部いいなことにしてあげるから。泣かないで...泣かないでジャスミン。愛してるよ。」

「どうやっていいな事にしてくれるの?」

「分からない、分からないけど...もうあなたを泣かしたくないんだよジャスミン。」

「泣かないでコセ。私嬉しいよ、ここに入ったから、日本であなたに会える日が増えた...」

「そんな事言わないで。もっといいな思い出をあなたにあげるよ。あなたに見せたい景色が日本にいっぱいあるんだよ。一緒に行こうって言ってた京都もまだ行けてないじゃん。ジャスミン...」

「あなたに会えるそれだけで嬉しいだから...」

警察官が

「時間だ」

そう言ってジャスミンの腕を強く引っ張った。ジャスミンがよろけて転びそうになる。そんなジャスミンの腕をさらに強い力で引っ張った。それを見て僕はたまらずに叫んだ。

「嫌がってるじゃないですか。そんな強く引っ張んなくったって。犬や猫じゃないんですよ。口言えば分かるでしょ。」

「怒らないでコセ。大丈夫だから。」

そしてジャスミンが涙で震えた声で警察官に言う。

「お願いします。私の持っている物は全部この人にあげてください。お金も服もこの人にあげて下さい。」

そしてジャスミンが僕に言う。真っ赤な目で僕を見つめて、流れた涙も拭かずに大きな声で言う。

「コセ私の持ってる物は全部お金に変えて。ご飯いっぱい食べてね。お酒ばっかり飲んじゃだめよ。私の事はあまり考えないで。いっぱい寝てね。」

僕は心が痛くて警察官に言う。

「どうしてですか。どうしてこんなに優しい人が捕まってないといけないんですか?彼女が誰かに迷惑をかけたんですか?」

警察官は何も言わなかった。何も言わずにジャスミンを立たせて連れて行こうと腕を掴む、僕の触れない腕を。ジャスミンが掴まれた腕を振って抵抗する。そしてジャスミンが、くしゃくしゃの顔で警察官に叫ぶ。

「待って...お願い」

そして、ジャスミンが警察官の腕を無理にほどいて僕の元に走って来た。“バン“っと大きな音を立ててアクリル板に手をついて、早口で僕に言う。

「キスして」

僕はジャスミンとキスをした。

冷たかった...

ジャスミンが警察官に腕を引かれて部屋を出て行った。最後まで僕を見つめているジャスミンの姿を分厚く重い鉄のドアが遮断した。僕はドアの向こうにむかって叫んだ。

「また会いに来るよ。悲しくならないでね。愛してるよジャスミン。」

扉の向こうから返事は無かった。ただ僕の声が反響しただけの部屋。唇には硬くて冷たい感触だけが残っていた。僕は悔しくて涙が止まらなかった。

 すると僕のいた部屋のドアが開いた。そして、あの日僕に取り調べをした白髪の警察官が入って来た。あの日とは違い優しい顔の白髪の警察官が長く黙って僕に言った。

「君は若いから。今が絶望のどん底で、もうこれからの人生に喜びなんて無いと思っているかもしれないけどね。少し大人になれば、あんな事で悩んでた自分はバカみたいだって思える日が来るよ」

僕は涙を拭って呼吸を整えてから白髪の警察官に言った。

「そんな大人にはなりません。」

僕は2人の部屋に帰った。
僕は冷蔵庫で冷やしていたカレーを温めて食べた...

 美味しい。美味しくって涙が出た。あの日ジャスミンと仲直りをするために作ったカレー。ジャスミンのために普段は買えない贅沢なお肉を買って、ジャスミンの好みに合わせて作った辛口のカレー。美味しくて涙が止まらなかった。こんなに美味しくできたのに。ジャスミンに食べてもらいたかったのに。僕はこのカレーを一人で食べている。あの日喧嘩をして家を飛び出したとき、ジャスミンに最後にかけた言葉

「勝手にやってろ。」

自分で吐いた言葉と、苦しそうに何か言おうとしていたジャスミンの表情が僕の体から力を奪う。こんなに涙が出ているのに、拭いてくれる人がいない。1人じゃ涙の止め方も分からない。キレイになった2人の部屋で、僕は1人座っている。いつも左の肩に感じるジャスミンの体重、温度がない。おそろいのパジャマで。2人で選んだスプーンで。とっても、とっても美味しいカレーを食べる僕。この部屋にジャスミンだけが足りなかった。このカレーが美味しくて、僕はカレーを食べられずにいた。


美味しくて、嫌いなカレーを乗せたスプーンを置いて、涙が止まるように、呼吸を整えようとしていた。僕は何も考えずにただ頬を伝う涙の温度を感じている。気がついたら壁に飾った2人の写真を見ていた。この部屋で撮った写真。ジャスミンの誕生日を2人で祝った写真。ほっぺとほっぺをくっ付けて、無垢に笑い合う2人の写真。ジャスミンの事を考えると違う場所から涙が出る。僕は写真の中に居るジャスミンを指で撫でて、心の中で話しかけた。

「ジャスミンあなたは今なにを考えてるの?何を見てなにを感じてるの?
ジャスミンいつもごめんね。今まで安心なんて一度もさせてあげれなかった。『少しずつ幸せになろう』いつも約束してるのに、少しずつあなたの涙が増えていく。ごめんねジャスミン、今怖いよね。ごめんねジャスミン...愛してるよ。愛してるのに、あなたが泣いちゃう。ジャスミン幸せはすぐには来ないけど、待てて。あなたが笑える場所を2人で見つけよう。
こんな事をあなたに言ったら、あなたは辛くなるよね。会いたい。会いたいよジャスミン。あなたに会いたい。」

写真の中のジャスミンは無垢に笑っていた。僕とほっぺたをくっつけて。


ジャスミンから払い下げられた荷物を開いく。服と財布、もぐらの焼酎、そして手紙が入っていた。その手紙はあの日喧嘩をした後にジャスミンがこの部屋で1人書いた手紙だった。僕は手紙を読んだ。

《コーセーへ

おこらせてごめんなさい。あなたおこるきもちわかる。わたしもなにがほしいかあのときわからなかった。じぶんがなにをいっているのかわからなかった。コーセーあなたとけんかしたいからいったわけじゃないですよ。
あなたのてのキズがしんぱいです。もうあんなことはしないでください。
あなたがいたいとわたしもいたいよ。あなたがなくとわたしもかなしいよ。
コーセーあなたはわたしにぜんぶくれる。わたしのためになんでもしてくれる。
でもわたしは、あなたになにもしてあげられない。もうなにもいらないです。
めにみえるやくそく、ほんとはいらなかった。
あなた、いえからでてっちゃってわたしかなしかった。わたしなにがほしいかわかったよ。だから、わたしにひとつだけください。
あなたがほしい。あなただけほしいです。ほかになにもいらない。わたしのとなりにずーといてください。わたしのことあいしてなくてもいい。となりにいるだけ。それだけください。

あなたかえってきたら。あなたすきなおさけでパーティーしましょう。わたしおさけのめないけど、いっかいだけがんばってのむからね。だからコーセーかえってきて。

あいしてるよ。わたしのコーセー。

コーセーとジャスミンずーと。》

涙が止まらない。胸が苦しくて涙が止まらなかった。あの日ジャスミンは友達に会いに行ったんじゃなかった。僕へのプレゼントを買いに行ってたんだ。近くじゃ買えないもぐらの焼酎、僕を喜ばすやめに買いに行っていたんだ。重かっただろうに。そして、焼酎を買って帰って来る途中だったんだ...僕の胸が苦しくてしょうがない。ジャスミン、僕も同じだよ。あなたがけが欲しい。他に何もいらないんだ。

 僕は、服も着替えずに布団に倒れ込んだ。ジャスミンを感じたくて。しかし、この布団からジャスミンの匂いはもうしなかった...

この日から僕は毎日同じお願いを神様にする。毎日。眠る前に。布団の中で同じお願いをする。

「どうかお願いです。彼女の夢の中に僕を連れて行って下さい。寂しい夜に彼女が泣かないように。」

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