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人はなぜ生きるのか?
ふと考えます。
なぜ人間として生きているのだろうか?
人として生まれたからには、何か成したいし成さねばならない。自分に一体何が出来るのか?
ひょっとして、なすべき事と運命的に出会うのではないか? とか。
そして、生きているだけで価値があるんだ、何て言葉もあるけれど、イマイチ実感が湧かない。
しばらく考えては、よくわかんない、でおしまい。
そんなこんなでボンヤリと考えていて、一つ思い当たりました。
生きるの最後にある「お葬式」って、何のためにやるんだろう? 亡くなった本人のため?
いや、違う。残された者のため。
残された者が、それを必要としている。
我が子のお葬式を通じて、痛感しました。意味なんて特にない。何となくやった方が?という世間体的な気持ちもない。ただ、この子が安らかであってほしいと願う、私の気持ちを形にしたいから。
この子の生きた意味は縁で繋がっていた周りの人の中に、それぞれの形で存在していた。
私は何のために生きるのか?
その意味は、自分では一生わからない。
ひょっとして、そんな意味は無いのかもしれない。
でも、私が生まれた瞬間に、両親の心の中に私の生きる意味が生まれたはず。そして、周りの人の心の中で、私の生きている意味が作られていく。
世の中で私が存在している意味、現象としてはあると思う。
私の仕事が誰かのお役に立ち
私の呼吸が草花の栄養になり
私の流した涙が雨となって降り注ぐ
それで満足できるのなら、それでいい。
それだけでは満足できない、と思うのなら
私の生きる意味は、誰かが作ってくれているのだから、私は誰かが生きる意味を感じて生きよう。
人として生まれた意味があるとすれば、他人や他の生き物全てに生きる意味を与えることが出来ること
雨の降る涼しいこの日に、ふと感じました。