選択の自由って、不自由と同じこと?
子供の頃、ちょっとした悪戯など、悪い事をする時って、何かワクワクしたものです。
大人になってからも、間違えても良いんだよ、なんて許しを得ると、ホッとしたり嬉しくなります。
この、なぜか嬉しくなるのって、きっと選択の自由を体感しているからだと思います。悪いことをしてはいけない、間違えてはいけないなど、選択肢が減ると窮屈になり、破りたくなる。それを、理性で抑えてストレスを感じる。
選ぶことが出来ない。
この状態は、辛いですね。
ルールは守らなきゃダメ、良い子でいなきゃダメ、お行儀よくしなきゃダメ、遅刻はダメ、真面目でなきゃダメ、前向きでなきゃダメ、優しくなければダメ、思いやりがなければダメ、感謝の気持ちを持たなきゃダメ、男らしく女らしくしなきゃダメ、先生の言うことは聞かなきゃダメ、社会に貢献しなきゃダメ。
ダメダメ、ダーメ!!
ちょっと考えただけでも、たくさん出てくる「ダメ」。もちろん、十人十色のダメや当たり前はあるでしょう。
でも、これだけ選択の自由が無い世界で生きているんですよね。その点、動物は自由ですね。ダメがほとんど無い世界に生きている。
ならば、動物たちは人間よりも遥かに幸せなのか?
いや、動物には生きていく事以外に選択肢はないのかもしれない。とすれば、私たちは随分と選択の自由を与えられているとも言えます。
もしも、私たちが生きていく上で、全てのダメをなくす事ができて、自由を手に入れられたとしたら、幸せでしょうか…? 想像でしかありませんが、何か違うと思いますよね
完全に自由であれば、選択するという行為自体がなくなってしまい、案外つまらないと思う。
選択肢がなければ、選択の自由も無い。
選択の自由とは、どちらかを選ばねばならない、どちらかを諦めるという不自由さなのかもしれない。
だからこそ、感情が動き感動が生まれる。
不自由や不幸な出来事とは、数ある幸せの一つの形なのかもしれませんね。
そういえば、私は子供の頃から「これはやってはいけません」「目上の人の言うことは素直に聞きましょう」という、世間さまの常識に対して、全くと言って良いほど、窮屈さを感じることはありませんでした。
いや、そういうものでしょ?
と信じて疑いませんでした。
オトナの期待に応えるのが、コドモの役割でしょって。
学校生活は大変快適でした。だって、言われた通りに行動して、教えられた事に答えていれば、すべてがオッケーだったのですから。
今更ながら思います。
自分の人生を生きていない。
だから、私の人生には感動がとても少ないのか…。