嫌いな人自分が嫌いな人はいつかの自分であることが多い
「あの人、毎回話し方が偉そうで気にいらないんだけど?」と言う人がいる。多少偉そうに話してはいるけれど、気にはならない程度だった。それよりも、その偉そうだ、と言った人も、あまり望ましくない日本語を話しているんだけどなぁと日頃から思っていた。
嫌いな人、というのは自分と似た感覚を持った人が現れた時なんだと思う。偉そうに話していると発言していても、貴方もかなり偉そうに発言してる時あるよ?ということである。
自分はあそこまで、ひどくない、と大抵の人は言うのだけど、それはレベルの問題であり、同じ要素を確実に持っていて、だからそんな人が引き寄せられ巡り会うようになっている。自分の鏡として引き寄せられる。現に私は偉そうに話しているのが気にならない=偉そうに話すのが、ダメだとも思ってないということになる。
自分の過去を振り返っても、この人、鈍臭くて苦手だなぁと思っていたら、それは一時期の自分であり、どこか自信のない言い方が嫌いだなぁと思っていたら、それは過去の自分であったりした。
実際、自分と違うタイプの人が何かやらかしても、気にはならないものだから。
自分の中で、あの人だけは自分とは違う。人間的におかしい。と思う人もいた。けれど人間的に最低だと思う度合いが大きいだけで、気に入らないと人のせいにする感覚が、以前の自分とどこか似てる部分もあった、と今は思う。
相手が醜態を晒すレベル5だとしたら、自分はレベル1であるだけで、自分が嫌だと思っている何かが似ているくせに、相手のレベルは5なので、そこまでひどくないと自分には言い聞かせる。必死で抑えているものを、相手があっさりと目の前に現してくれたりする。
そしてそれは自分がその殻から抜け出しそうな時や抜けた時に、わざわざ現れる。貴方こんなんでしたけど、知ってました?と言わんばかりに。
そんな人と人との巡り合わせや引き寄せを、じっくり思い返してみると、嫌いな人は、自分が必死で抑えてる、もしくは抑えていた自分だったりするのだとふと思う。
偉そうに話してるのが気に入らないんだよね。そう言う人に、そうだね、と以前なら共感してあげてただろう。でも今は「それだけ自分に自信がないから、あんなふうに話してるのかもしれないね。」と言うようになった。
嫌いだなぁ、と腸が煮えくり返る時や、やることなすこと、気に入らない相手が現れた時は、自分を見つめ直す時かもしれない。飽くまでも私的な意見で、そうだと言い切るものではないけれど。
引き寄せ、というものがあり、自分の気持ちが肯定的なら肯定的な現象が。否定的なら否定的なら現象が現れるのも、そういうことだと思う。