化野念仏寺・西院の河原で
お墓と言うと、つめたく暗い死のイメージが連想される。単に死者を弔うものだからではない。墓地に並ぶお墓の列の静けさや、人工的に切り出した墓石の面のつめたさを具体的に想像したとき、死はより一層、来るものを一切拒むような、近づきがたい世界に感じられるのだ。そこはすべてが静止して、何の生のよろこびもない、まさに凍った死の世界だ。
3月に入ったばかりの暖かい日の暮れのこと。化野念仏寺にまつられた石仏や石塔を見たときにわたしが感じたのは、しかし、そのような死の冷たさだけではなく、確かにここに生きていた命、今もなお動いている命の温もりだった。
化野念仏寺では、かつてあだし野一帯に無縁仏として散乱していた約八千体にのぼる石仏・石塔が集められ、境内の「西院の河原(さいのかわら)」にまつられている。これらの無縁仏が、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞらえて配列安祀されていると言うが、初めてここに来た人は、八千体の灰色の石墓がずらりと並ぶその一見壮絶な光景に、一瞬たじろいでしまうかもしれない。
大人の膝ほどの高さの石仏・石塔でも、それがひとところに八千体、無言で並んでいると、気圧されるような気がする。足を踏み入れた瞬間、その空間の中で自分だけが異質な侵入者として、じっとこちらを見つめる目が無数にあるように感じる。
それでもゆっくりと歩きながら、足元の石塔や石仏に目を向けてみると、ひとつひとつの石が違った個性を持っていることに気付く。まるい石、角ばった石、扁平な石、石の形はこんなにも多様なのかと驚くほど、不揃いだ。じっと無言で並ぶ石なのに、千差万別のいきいきとした表情を見せる様子に、どこか石仏や石塔が生きているかのような豊かな躍動感を感じる。
不揃いな石のそれぞれに、生きた人間の温もりを感じて、わたしは不思議な懐かしさを覚えた。と同時に、その不揃いの石からは、かつて石を拾いあつめ、積み上げ、故人を思い慕ったひとの気持ちがありありと感じられるようで、思わずその小さな石塔の前で手を合わせていた。生きていてほしい、そばにいてほしいと、祈るように故人を慕ったひとの思いを受けるうちに、石に生命が宿り、その命が今もここに生きているのではないだろうか。
無縁仏にも関わらず、ここ化野念仏寺への参拝者が絶えないのは、故人を慕うひとの願いが時を経て別のかたちで成就し、石に生が宿るその姿に、皆どこか救われる思いになるからかもしれない。夕暮れの陽の中に並ぶ石仏や石塔を見ながら、そう考えた。