この街は「いまだ」未完成、「役目」を果たせない「お台場」の今 ~前半 お台場誕生の歴史
私は「踊る大捜査線」シリーズが好きである。ドラマが放送されたのは1997年、ロケは主にお台場で行っており、すでに東京国際展示場やフジテレビ本社はあったものの、当時のお台場には空地が多く、ドラマを観るとそれが確認できる。
踊る大捜査線は4度映画化され、2作目のある人物のセリフで「この街はまだ未完成なんです。今も発展し、増殖を続けている」というセリフがある。2作目が公開されたのは2003年、あれから19年の月日が経つが、いまだにお台場は完成してないのだ。
お台場誕生の歴史は、江戸時代に遡る。1853年、ペリーの艦隊が来航して幕府に開国の要求を迫った。これに脅威を感じた幕府は、東京湾の海上に洋式の海上砲台を建設させた。
工事は急ピッチで進められ、およそ8か月の工期で1854年にペリーが2度目の来航をするまでに砲台の一部は完成し、そこは品川台場(品海砲台)と呼ばれた[。お台場という呼び方は、幕府に敬意を払って台場に「御」をつけ、御台場と称したことが由来である。
ペリーの艦隊は東京湾(品川沖)まで来たが、この砲台のおかげで横浜まで引き返すことになり、ペリーは横浜に上陸することになった。
台場は石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台で、11~12基造る計画であり、海上に第一台場から第三台場、その後に第五台場と第六台場までは完成したが、第七台場は未完成、第八台場以降は未着手で終わった。
第四台場は7割ほど完成していたが工事は一旦中断され、7年後に工事が再開されて完成した。第四台場は後日、造船所の敷地となった。また第四台場の代わりに品川の御殿(ごてん)山のふもとに御殿山下台場が建設され、結局、合計8つの台場が建設された。
現存している台場は、台場公園として開放されている第三台場、他の埠頭などとつながっていない第六台場が残されている。
この砲台は十字砲火に対応しており、敵船を正面から砲撃するだけではなく、側面からも攻撃を加えることで敵船の損傷を激しくすることを狙ったものである。
2度目の黒船来襲に対し、幕府はこの品川台場建設を急がせ、洋式の大砲を据えたが、結局この砲台は一度も火を噴くことなく日本は開国した。ペリーが江戸に上陸することを阻止は出来たが、大砲の役割は果たせなかったのだ。
1875年(明治8年)、海上の7つの台場が陸軍省の所管となる。明治中期には東京湾要塞(東京湾周辺の防衛を目的に設置された要塞。三浦半島および房総半島に設置された砲台・海堡で構成され、これらの施設を総称して東京湾要塞と呼ぶ。)の建設が始まったこともあって台場の重要性が減り、以後徐々に払い下げられていく。
1878年(明治11年)、芝区の成立に伴い、海上の7つの台場(第1台場 から 第8台場)は芝区に所属し、1912年(大正元年)に第四台場、1917年には第一台場が民間人に払い下げられ、造船所となり、1915年には、第三台場・第六台場が東京市に払い下げられ、史跡公園として整備されることになる。
第三台場は1928年(昭和3年)、台場公園として市民に開放される。1934年(昭和9年)には第二台場・第五台場も東京市に払い下げられ、1939年(昭和14年)には、第四台場が新しく完成した埋立地(現在の品川区東品川)に埋没して消滅する。
1947年(昭和22年)には、芝区・麻布区・赤坂区が合併し、港区になったことで台場地区は東京都港区に所属することになった。1955年、品川区と地続きになっていた旧第四台場の土地が、港区より品川区に割譲される。1957年には、唯一陸上に造られた御殿山下台場も撤去された。
1961年には東京港の開港に伴い船舶が増加したため、航路を塞ぐ形で浮かぶ第二台場が撤去され、1962年に第五台場、1963年には第一台場が新しく完成した埋立地(現在の港区港南)に埋没して消滅し、1965年には第七台場も撤去された。これにより、現存する第三台場と第六台場以外のすべての台場が消滅した。なお、第七台場は最初から未完成のまま海面下に水没した状態で残されていた。
1979年(昭和54年)、東京港の海底を掘削した際の残土により埋立が進められ、13号埋立地が完成する。そのうち北部は幕府が築いた台場にちなんで、お台場と呼ばれた。完成当時、13号埋立地はいずれの区にも属していなかったが、北部は港区、西部は品川区、南部は江東区にそれぞれ所属した。