波乱万丈な人生を送った坂本竜馬の「いとこ」沢辺琢磨
禁教下において神道の祭司職が邪教へ改宗したということもあって、琢磨一家に対する迫害は非常に厳しく生活は困窮を極めた。さらには精神的に参ってしまった妻が自宅に放火をするという事件も起き、琢磨は妻子を残して箱館を一時脱出し布教しながら東北地方を南下するが途中で捕縛・投獄され、後に釈放されて箱館に戻った。
だが仙台にて再び捕縛されるが、明治政府によって禁教が解かれると自由の身となり以前にも増して布教に力を入れた。
1875年、ニコライの力もあり、司祭となった琢磨は任地や各地の教会で布教活動に勤め、多くのハリスチャニンを育てた。東京復活大聖堂(通称:ニコライ堂)建設にあたっては、建設資金を困窮する信者の生活費に回すべきだとして、師のニコライと対立したこともあったが、後に和解。東京復活大聖堂は明治17年3月に起工した。
建設中途の明治22年頃からは尖塔が皇居を見下ろす形になり不敬であるとの言説が流布するという反響があり、琢磨は建設を妨害しようとする右翼への対応をした。正教によって温和な精神にはなっているが、青年時代の武道の精神が容貌に表れた琢磨の姿が建設現場に現れると、右翼はいつの間にか姿を消していたと伝えられている。
そして琢磨は大正2年、79歳でこの世を去った。