波乱万丈な人生を送った坂本竜馬の「いとこ」沢辺琢磨 前編
坂本竜馬は日本の有名な偉人である。好きな方も多いだろう。土佐を脱藩後、幕府側の勝海舟に弟子入りしたり、日本初と言われる株式会社「亀山社中」を立ち上げ、犬猿の仲だった長州藩と薩摩藩の仲介に入り、薩長同盟を締結させ、倒幕に導き、最後は暗殺されてしまう激動の人生を送った。
実は坂本竜馬の「いとこ」にあたる人物も壮絶な人生を送ったことは知っているだろうか?
その人物の名は「沢辺琢磨」。竜馬の父の弟の子供であり、竜馬の2歳年上のいとこにあたる。
21歳で江戸に剣術修業に出た琢磨は、江戸で三大道場の一つといわれた鏡心明智流の桃井道場で腕を磨き、師範代を務めるまでになった。
ところがある晩、酒を飲んだ帰り道に拾った金時計を一緒にいた友人と時計屋に売ってしまい、それが不法なものであることが発覚して窮地に追い込まれた。罪を逃れるために龍馬などの助けを得て江戸を脱出。東北各地を周り、新潟にたどり着き、そこで出会った前島密(後の明治日本の政治家で近代郵便制度を作った人物)に箱館へ行くことを勧められ箱館に行く。
箱館では剣術の腕が功をなし、道場を開くと地元の名士たちと親交を持つようになった。そこで知り合った箱館神明宮(現・山上大神宮)の宮司、沢辺悌之助の娘の婿養子となり、沢辺姓を名乗る。箱館時代の琢磨について、新島襄(後の同志社大学設立者)がアメリカへ密航するときの手助けをしたというエピソードもある。
当時、既に開港していた箱館にはロシアの領事館があり附属の聖堂で管轄司祭として来日していたロシア正教会のニコライ神父は日本宣教の機会を窺いつつ日本の古典文学や歴史を研究していた。領事館で働く者の中には子弟に日本の武術を学ばせたいという者がおり、その指南役を琢磨がすることになった。
攘夷派(外国人を打ち払うと考える人たちのこと)だった琢磨はニコライの日本研究に対して日本侵略に向けた情報収集ではないかと疑問を抱き、ニコライがロシアから送り込まれた密偵だと思っていた。そしてニコライを殺害する覚悟でニコライを訪問、来日や日本研究の意図を問い詰めた。
ニコライは琢磨の問いに答えるとともに、逆にハリストス正教(キリスト教)の教えを知っているかと質問した。知らぬと答えた琢磨に「ハリストス正教が如何なるものかを知ってから判断するのでも遅くはなかろう」と諭した。
それも一理あると考えた琢磨は以後ニコライの下へ教えを学んでいくうちに心服し、後に友人の医師、酒井篤礼らを誘って教理を学んだ。そして、ついにはまだキリスト教禁制下の慶応4年、酒井らとともに秘密裡に洗礼(洗礼名パウロ)を受け日本ハリストス正教会の最初の信者となった。
洗礼後も琢磨は、神明社宮司の座に留まっていたが、やがてハリストス正教に改宗したことを公言し神明社を去る。