モロッコのユダヤ人
いくつかの言葉を知れたことは、ひょっとしたら我が人生、最大の宝だったかもしれない。AI翻訳時代到来とはいえ、自分の身体と感情と知性を総動員して一つの言葉と向き合うーーたとえそれが小さな新聞記事一つを読むというような状況であったとしてもーー体験の一つ一つは、「ある時代の地球のどこかにたまたま生まれ落ちた」こと、つまりそれ自体は決して変えることのできない宿命から、都度、ほんの少しだけ自由にしてくれるような気がするからだ。
で、数日前にもまたそんな体験に遭遇。スイスの新聞NZZに「そうなのか」と唸る記事を発見。数日前にベルリンのイスラエル人コミュニティの記事をご紹介したが、これまたガザで起きていることの「余波」というか、「飛び火」というか。国際政治学者や中東学者、外交、戦略といった方面の専門の方の分析や解説も大変勉強になるけれど、少し離れた地点での人間たちにフォーカスしたこんな記事が、私にはいつもとても興味深い(何故だろう?)
世界の出来事の、いわゆるニュース的側面は、通信社配信の味も素っ気もない情報を追うだけでもそれなりに掴めるのだけれど、ちょっと掘り下げた議論や分析、あるいは決してトップ記事にはならない「物語の側面」は、媒体の懐の深さや見識、そして抱えるジャーナリストの資質に負うところ大。そしてそんなところにこそ、斜陽のメインストリームジャーナリズムに今だに価値を見いだすが故に、1%の量も読めないくせに(だからもったいないなあとも思いつつ)、私は日仏英独語の計5紙を定期購読し続けている。朝の食卓でタイトルやリードに目を通し、時に中身をじっくり読んだりしているうちに気づけば、あらやだ、もう10時! 子供達がそれぞれ別の場所に住むようになって以来、朝のバタバタからも解放され、そんなグータラな日常を送っている。
余談ながら、ここで取り上げられているのはモロッコ、カサブランカのユダヤ人コミュニティだが、昨年、翻訳した小説『ジャコブ、ジャコブ』(ヴァレリー・ゼナッティ)の舞台は前世紀半ば、アルジェリアのユダヤ人コミュニティ。不幸にして、アルジェリアでは独立戦争を大きな契機として、ほとんどのユダヤ人が先祖代々住んできた故郷を逃れたが(『ジャコブ、ジャコブ』でもそのことが出てきます)、モロッコにはまだユダヤ人コミュニティがこんな形で残っていたことをこの記事で知った。そのこと自体も私にはちょっと驚きだったが、同時に、イスラエル建国直後の迫害によって、やはり祖国イラクを逃れた亡き義父の波乱に富んだ亡国の人生についても思い出した。アラブの国々に何百年にも渡って住み続けてきたユダヤ人たち、みんないなくなってしまったんだなあ、もう一度、仲良く一緒に暮らせる日がくればどれほどいいことか、とため息まじりにかなわぬ夢想をしながら。
カサブランカといえば、かの有名な映画「カサブランカ」を当然連想するわけだが、あれもまた、思えば戦争の話ではあった。モロッコで私自身はマラケシュしか知らないけれど、そのマラケシュへの往路、無人に等しい真夜中の空港で乗り換えしたところ、それがカサブランカでもあった。あの時も、長い通路をゲートに向かいながらハンフリー・ボガードの美しい横顔を思い出していたものだった。
さてさて、前振りはこの辺にして。以下、記事の全文訳です。やっつけ仕事なので誤訳その他ありましたらどうぞご指摘ください。
ユダヤ教コミュニティへの高まる圧力ーー他のアラブ世界のどこよりもたくさんのユダヤ人が住まう町、カサブランカ
何世紀にもわたり、カサブランカではユダヤ教徒とイスラム教徒が隣り合わせで暮らしてきた。しかし、イスラエルへのハマスの攻撃の日以来、モロッコの最後のユダヤ人コミュニティの1500人の住民は「ほとんど目に見えない存在」になった。
アラブ世界で最古のユダヤ教博物館、それはあえて探さなければ決して見つからないはず、というのも入口のドアの隣、大理石の標識にはただ「ミューゼウム」としか書かれていないのだから。ほとんど目に止まらないくらいのダビデの星があることでかろうじて、この平らな白い建物には何千年にもわたるモロッコのユダヤ教徒の歴史の遺産が収められていることが示唆されるくらいだ。
モロッコにはかつて、25万人のユダヤ人が生きていた。1948年のイスラエル建以来、だがその大半はモロッコを離れた、貧困から、あるいは排斥主義やポグロムから逃れる形で。そして今日、カサブランカはその数わずか1500名とはいえ、アラブ世界では最大のユダヤ人コミュニティである。そこには20以上のシナゴーグ、いくつかのコーシャーレストランやカフェ、パン屋、肉屋、そして3つの学校、複数の集会所がある。カサブランカのユダヤ人は、街のあちこちに散らばって住み、かつてのユダヤ人街は、アラブ人街と混ざり合ってしまっている。
当地のユダヤ博物館の学芸員であるゾール・レヒヒルさんは、とりわけモロッコのユダヤ人世界に通じている人だが、その胸元には悪霊からのお守りといわれるモロッコ・イスラム教のシンボルをかたどったネックレスをつけている。目の前の机にはシャバット・シャロムと書かれたコースターが置かれている。博物館を訪れる人は、イスラム教徒がユダヤ博物館を取り仕切っていることに驚くが、レヒヒルさんは「全然、矛盾することじゃないです、全く自然なことです」と答え続けてきた。ユダヤ人とイスラム教徒はモロッコの日常の中でいつも一緒にやってきたのですから、と。
博物館のイベントルームを案内しながらレヒヒルさんは言う、「ここでは毎年、ユダヤ教徒もイスラム教徒も一緒に参加して祝祭日を祝います」。壁にはアフリカ全土のシナゴーグの写真。不寛容などということには耳を貸したくないレヒヒルさんは、その言葉を聞いただけで眉間にしわを寄せる。「我々は一体だというのに、どうして不寛容などということが起き得ましょう。ここには二つのグループなどというものはない、だって我々は皆、モロッコ人なのですから」
計算された多様性
生き生きとしてオープンで寛容ーーゾール・レヒヒルさんはモナコが公式に外にアピールしたいイメージをそっくり体現している。博物館の直近の改修工事はここでのユダヤ教の遺産を可視化しようとする国家の試みの一環として手がけられた。全国で10以上のシナゴーグの扉が新たに開かれ、いくつかのユダヤ教墓地が修復された。ユダヤ教は、イスラム教と並び、唯一、国に認定された宗教だ。2011年以降、モロッコにおけるユダヤ教の文化遺産は国のアイデンティティとして憲法で保障されてもいる。
とはいえ、こうした歩みの背後には、政治的な計算もあるのである。モナコの王室は、観光客や進歩的な西洋の投資家を招き入れるために、より多様でモダンな自己イメージを作りたいのだ。ユダヤ人コミュニティを保護することはリスクフリー、どのみちモロッコにはごく少数のユダヤ人しかいないわけで、それはモロッコ王モハメッド6世にとって政治的に何ら危険はないはずだからだ。
さらにいえば、モロッコは西サハラ地域の紛争に関して国際的な支援を受けるために力を尽くしてきたが、国内のユダヤ人コミュニティの保護は、その文脈に属することでもある。モロッコ王の最大の「戦果」、それはトランプが大統領だった時期に、西サハラへ地域の要求権をアメリカに認めさせたことだった。昨年の夏には、イスラエルもそれに習った。その見返りという形で、モハメッド6世はモロッコとイスラエルとの公式な国交樹立に同意。ガザでの戦争や国内での多数のデモの要求にもかかわらず、王はこの点に関して、揺るぎない姿勢を保っている。
飾りのないドアの後ろで
王室から少し離れたところでは、しかしながらモロッコの空気は次第に緊張したものとなっている。デモでは、群衆がイスラエルの国旗を燃やすようなこともあるし、反ユダヤ主義的な発言にも力がこもる。10月7日以来、カサブランカのユダヤ学校では、子供達は放課後、警察の保護のもとに親の迎えを待つようになった。かつては四方を壁に囲まれていたに過ぎないユダヤ人老人ホームが、今では門の前に金属の柵が設けられ、警備員が常駐している。イスラム教徒たちは、よく家のドアに宗教的なシンボルをつけているが、そうした一切の飾りを取り除いたドアの奥で、今、ユダヤ人たちの暮らしは営まれている。
そうしたドアの一つの向こうに暮らすのはラファエル・エルマレーさん、モロッコでただ一人のユダヤ人旅行ガイドだ。12月のその晩、エルマレーさんのアパートにはロウソクの光が灯っていた。8日間にわたるユダヤ教の光のお祭り、ハヌカの時期だったからだ。8本指のロウソク立てに彼と息子が代わる代わるに火を灯す間、エルマレーさんが祈りを唱える。
祈りの間、エルマレーさんは頭にキッパ*をかぶっている。外では決してしないことだ。「キッパはシオニズムのシンボルと思っている人たちもここにはいますから、問題が起きる可能性だってあるわけです」とエルマレーさん。敵視されないようにとキッパの上から夏の帽子をかぶるか、そもそもキッパは外ではかぶらないという人が多いのだそうだ。
後者を選んだエルマレーさんには、すでに子供の頃から反ユダヤ主義の攻撃の標的になるとはどういうことかがわかっていた。通った学校はユダヤ学校で授業中はキッパをかぶっていたが、学校を出るときには皆、それを外す習わしだった。ところがある日、エルマレーさんはキッパを外すのをすっかり忘れてしまった。「すると、イスラム教徒の友達が近づいてきて、僕の頭からキッパを剥ぎ取り、それを砂埃の中、足で踏みつけたんです、きたねえユダヤ野郎、と言いながら」
それは1967年、イスラエルが多くのアラブ諸国相手に勝利を収めた六日戦争の直後のことだった。エルマレーさんは、この出来事の数年後、モロッコを離れ、約20年にわたり、英国で暮らした。「もうここは安全と感じられなくなってしまったからでした」と回想するエルマレーさんが、しかし再びモロッコに戻ったのは、その頃に要介護となっていた母親に懇願されたためだったという。「親の世話をするのは掟にも定められていますから。次第にその重みを感じるようになりましてね」
1967年当時に比べれば、モロッコ国内の空気はまだそれほど緊迫してはいないし、ガザの戦争を理由に国外に出た人はカサブランカではまだ誰もいない。戦争前と同じように、イスラム教の友人たちとも会うし、アラブ・カフェで過ごすこともやめていない。「刺激するような行動さえ取らなければ、安全に暮らしていられます」とエルマレーさんはいう。キッパをつけないとか、ある地区には足を踏み入れないといったこともその一環なのだ。「何が起きるかわかりませんからね」ーーそれがエルマレーさんにとっての安全の感覚なのだ。
キッパをつけないラビ
ベット・エル・シナゴーグもまた、ユダヤ博物館同様、高い壁の背後に隠れるようにして立っている。カサブランカの他のユダヤ人施設同様、こちらの所在地も、警察のバンが停まっているところを探せばそこからだいたい見当がつくというものだ。
このシナゴーグの長は、60代半ば、痩躯のラビ、ハズートさん。訪問客が通される小さなオフィスには、延期されたバーミツバ**のお祝いの飾り付けがそのままになっている。ラビの机の上のスクリーンには建物の前に備え付けられた防犯カメラの映像が映っている。話をしている最中も、ラビの視線がそこから離れることはほとんどない。
カサブランカのユダヤ人が安心してキッパをつけられないということ自体が反ユダヤ主義のせいだとは思いたくない、とラビ。「我々はアラブ人の国に住んでいるのです。ですから我々もそれに準じて振る舞う、それだけのことです。誰の気分も害さないこと、それはリスペクトの問題です。外でキッパをつけないのも、リスペクトからそうしているのです」。
それに対して、国王はユダヤ人コミュニティを保護する。「戦争前には、ここには役所の人がただ二人、立っていただけでしたが、今は政府から四人の警備人、そして警察のバンが派遣されています。大変ありがたいことです」とラビはいう。「とはいえ、コミュニティ内の雰囲気は声を押し殺しなような感じにはなっています。無理からぬことです。というのも、ここのコミュニティもすでに一度、攻撃を受けたことがありましたから」
「アラブ人は幸せそうなユダヤ人を目にするべきじゃない」
それは2003年のことだった。ユダヤ教コミュニティセンターとコーシャーレストラン、それにユダヤ教墓地が、狂信イスラム主義者の自爆テロの攻撃を受けた。60人が負傷し、41人が死亡。その中にユダヤ人は含まれなかったが、それは大半のユダヤ人が安息日のため、自宅にいたからだった。それでも2003年5月16日という日はコミュニティの記憶に焼き付けられた。
新たな攻撃を未然に防ぐために、目下、ユダヤ人の暮らしが人目につかないようにと政府も注意を払っている。毎年、数百人のユダヤ人が国内のユダヤ聖人の墓に詣でる巡礼の旅が今年は中止になったし、ユダヤ博物館が企画していた特別展は、無期延期となっている。そしてベット・エル・シナゴーグも、今、非ユダヤ人観光客の訪問を受け付けていない。
キッパが断念され、通行止め措置が施される中、カサブランカのユダヤ人たちはなかんずく「目立ってはいけない」という点で意見が一致している。「つまり、アラブ人たちは、幸せそうなユダヤ人を今、目にするべきではないのです」ーーエルマレーさんは疲弊した表情で、そうまとめる。けれどエルマレーさんはこの国を再び離れようとは思っていない。今のところまだ安全、と感じているからだ。とはいえ、「結局のところ、我々はアラブ人の国に暮らしているわけですから」と彼がいう時、そこにはある種の苦い思いがにじみ出る。
逆にハズート・ラビが「我々がアラブ人の大多数に対してリスペクトを示し続ける限り、我々には自分たちの宗教を好きなように信仰する自由があるのです」と言う時、その声は穏やかだ。そう締めくくってラビは立ち上がり、オフィスを後にした。外に出る前には、キッパの上に帽子を重ねて。
*キッパ⋯⋯ユダヤ教徒の男性が頭につける丸い帽子。
**バーミツバ⋯⋯13歳になった男子の成人を祝う祭りのこと。