コロナ第二波の欧州より
三月のロックダウンの時期、最初に読んだ(再読した)疫病文学は『ペスト』だった。現在、日に日に感染者倍増の時間を生きる中で最初に手にした疫病文学はカレル・チャペックの『白い病』。『ペスト』が書かれたのは1947年。そしてそのちょうど10年前の1937年に『白い病』が書かれたが、この二つの作品執筆をちょうど挟むようにして第二次世界大戦の数年間がある。
『白い病』は疫病文学(戯曲)という形をとった独裁への、狂信への、熱烈な愛国主義や排他主義、そして分断への批判のメッセージ、というふうに私は読んだけれど、もちろん、こうしたものに数年、数十年ごとに懲りずに流されていく人間の性(さが)そのものが、すでに疫病なのである。
欧州の国々がここひと月余りの間に経験している第二波の到来を、メディアを通し、あるいは世界各地に実際に暮らす家族や友人、つまり「マイ特派員」ネットワークの生の声を通して日々、インプットしながら、実にいろいろなことを考える。自分たちの生きる日常と、数十年近く前に書かれた書物が直結する、そんな緊張した時間の只中にいることを実感せずにはいられない。
全然「一枚岩」じゃない欧州
私が暮らすスイスでは、5月のロックダウン解除以降、感染者数がかなり低いところにずっと横ばいという「静かな時間」が長く続いた。夏休みが明けて子供達が学校に戻り、大人が職場に戻った9月以降、隣国フランスの地図上に次々と「赤いゾーン」(ハイリスクゾーン)のマークが増えていく中、またクロアチア、英国、オランダ、ベルギーなど、地図上の右や左や上や下に「危険国」が次々と現れてくる中、「ここはまだ大丈夫」という気分に支配された、今にして思えば呑気な数週間だった。
それがここへきて激変。春の第一波の時もそうだった。最初はよそ事だったことが、いつのまにか自分ごとになってオロオロしているうちに、最も危険な国リストのトップに躍り出るという「いつか来た道」を今回もまた辿りつつある。
何らかの危機が到来した時の対処法に現れる国家間の差異。そのことを今回ほど強く感じたことはない。各国が時差付きで次々と打ち出す「第二波対策」のタイミングやその内容を見比べながら、つくづくそう思う。(例えば今日は「欧州各国、次々と対策強化」と題したこんなニュースーーアイルランド、イタリア、チェチェン、スロヴァキア、ドイツのバイエルン、英国のウェールズなどで次々発表されたロックダウンを含む厳しい措置について)
まずは体制の違い。
政治体制、統治スタイルが強権的、中央集権的であればあるほど、決断は早く、トップダウンのリーダーシップの発揮も効率的だ。その良い例がフランスで、新たな決定事項があるたびに大統領が夜の8時に全国放送テレビで登場し、国民全体に向けて「明日から、来週からの措置」を発表。まさに「お上からの通達」で、今回の一部都市部での夜間外出命令など、措置に背けば罰金が科せられるなど、国民はこれに従うしかない。実際、パリの友人の話によれば夜の9時以降、街はシーンと静まり返って人っ子一人歩いていないそうだ。フランスはそうした上意下達の典型例で、だからマスクの徹底も非常に早かった。逆にスイスのように連邦制だと、まずは中央政府の力が圧倒的に弱い。さらにその中央政府が右から左まで大きな幅のある思想や世界観を持つ七人の政治家のチームという形なので、政府内部での妥協点、一致点を見つけるまでに非常に時間がかかる。中央政府が決定的なことをなかなか言えないので、各州が独自にコロナ対策を立てる。ウィルスに国境がないように、もちろん州境の柵がそこにあるわけでもないのに、対策は州ごと、ということが起きる(これまで「ゆるい代表」だったヴァレー州が昨日、いきなりクラブやバーの閉店や集団スポーツの禁止などの厳しい対策を打ち出し、え、ヴァレーが????と全国がどよめいた。そして、次はうちか、と戦々恐々、各人、息を潜めている)。
平時であれば、連邦制はスイスの宝であり、死守すべき価値観である。その連邦制を下からガッツリ支える住民投票は年に数回行われ、国会や州議会が可決した法案でも市民のイニシアティブでいつでもひっくり返せるし、逆に市民の発議が州や国の法律として実るということもしょっちゅう。そんな体制を多くのスイス人は誇りに思い、地元という単位のコミュニティへの帰属意識も濃厚だ。
「決定権は、悪いけど、俺たちにあっから」ーー住民投票の根底に流れるメンタリティは結局そこだ。フランスがデモで異議を唱えるとしたら、スイスは事細かい投票用紙で異議を唱える。メルケル首相が目立つ印象があるドイツも、やはり連邦制。同じ欧州でもハンガリーのように、定義上、独裁政権に限りなく近い国だってある。そういう政治体制の違い、長年の仕組みや慣習の違いと無関係なコロナ対策などどこの国にも存在しない。
さらに文化的、メンタリティ上の差異がそこに乗っかる。
ドイツでは初夏あたりからマスク反対の大規模なデモがあちこちで起きている。ドイツほどではないけれど、スイスでもそうしたデモはあった。「マスクすることくらいがなぜそこまで大ごとなのか」ーー欧州暮らしの長い私にとっても、そこはちょっと共感や理解をしにくいポイントなのだが、このマスク反対の人々というのは、ざっくり言えば「ネオナチ」と「リベラル」の混合なのである。ネオナチのシンパの多くは、アメリカのQAnonグループなどがSNSで拡散する陰謀論に共振し、コロナを政府、あるいは何らかの国際組織、民族集団、宗教集団などの捏造した陰謀である、という説に与するナラティブに押され、またコロナで勢いを失った極右勢力の挽回という願いも込めて、恐らくはこうしたデモに参加する。かたや(急進的な)リベラルが掲げるのは「基本的人権」。マスクにせよ、ワクチンにせよ、国から何かを強制されることは個人の選択の自由という基本的人権を侵すものである、というところがデモ参加の最大の理由。急進派リベラルの一部は陰謀論にも弱く、その態度はシリア内戦についても、コロナについても一貫している。「連帯という名の下、そこに連(つらな)らない人間(=マスクをつけない人間)を糾弾するのは全体主義的だ」ーーとても親しくしているドイツ人の友人のその一言に実際、え、そんな大げさな、と私は驚いたし、彼女の友人たちの幾人かは、こうしたデモに赤ちゃん連れで参加したりしたという。その多くはアーチストとか環境問題に熱心な真面目な市民だったりするともいう。そうした話を聞けば、ニュースの向こうの生身の人間、自分と地続きの人間を間近に見た思いにもなるというもの。
ここ一、二週間の間、周りの親しい人の中に、すでに感染者が複数出ているし、濃厚接触、あるいは症状があってテストを一度ならず受けた人の数はものすごく多い。ひと月前まで、いや、春の第一波の時ですら、コロナは深刻だけれど、それでもまだどこか遠くの出来事であり続けたけれど、今回はとうとうすぐそこまで。そういう感覚で日々を生きている人、今の欧州にはとても多いと思う。
なぜ、今、欧州に第二波なのか
なぜ、欧州が今、こうなっちゃっているのか(逆にアジア諸国は比較的落ち着いているのか)については諸説あるけれど、数日前に読んだルモンドの記事「コロナとの戦い。韓国と日本から学ぶこと」は割に納得のいくものだった。曰く、
1)韓国と日本とは政府のとった対策、あるいは対策の欠如という点で大きく異なる(韓国は初期から検査の徹底、クラスター潰しの徹底を貫いた一方、日本の対策は場当たり的で一貫性が見られなかった)が、結果においてはともに、欧州に比べれば感染者数の増加も死者数もぐっと低く抑えられている。
2)その理由の一番目は「マニアックなほどの」衛生観念。子供達は教室を自ら掃除するし、大人も公道の掃除を買ってでる。手洗い、うがい、マスクなどももともと生活の一部になっており、こうした衛生観念がまずは個人のレベルで徹底していることが感染拡大を抑える一助になったはずである。
3)次いで、衛生観念、および、公衆道徳一般における集団レベルの圧力(同調圧力)もまた、非常に効果的だったのではないか。用心を怠ったものが罪悪感を抱く、つまり、周りに期待される行動をとることを常に期待される社会的プレッシャーが功を奏したのであろう、と。
4)もっともこうしたプレッシャーは過剰にもなりうる。ソウル大での調査では質問された62パーセントが感染による「汚名」を病気そのもの以上に恐れていると答えたというし、日本でもこうしたプレッシャーと不安定な労働状況での失業等が重なって抑うつや自殺の増加を招いているという側面もある。
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私の目から見れば、「個人主義的」な欧州諸国でもみんなよく頑張ってきたとは思う。でもその「頑張る」は、やはり「後ろ指されたくない」とか「人に迷惑をかけない」というところではなく、純粋に「感染が怖い」「高齢者や持病のある弱者を守る」「その結果、医療を守る」というあたりに集中している。そして、近いところで誰かが感染者になったとして、まさかそれを「隠す」とか、「責める」という発想は非常に希薄だし、自分が感染者になった時にそれを「汚名と感じる」こともほぼないと思う。
コンサートに行けばガラガラの会場で観客は全員マスクをしているし、人と人との挨拶は肘と肘のタッチがいつの間にかデフォルトになっている。けれど、秋休みといえば、人の移動は避けられないし、国境封鎖というのはあくまで最後の最後まで手をつけない聖域のようなもの。なぜならここにもまた、人の移動の自由という美しい理念がデンとしてそこにあり、そう簡単にこれを崩すわけにはいかないから。感染経路探知のアプリは英国以外、どこの国でも苦戦している。アプリが機能するために必要な利用者数になかなかたどり着けないからだという。ここにもまた個人情報の提供や、お上からの押し付けに対する強い抵抗があることがわかる。
尊重する価値観との板挟み
コロナの感染拡大を上手に抑えることは国益ではあるけれど、個人の自由の尊重だとか、地方自治体の自治のリスペクトだとか、教育の機会の保障だとか、経済との兼ね合いだとか、とにかく秤にかけて悩まなければならないジレンマがあまりに多いのである。そんなジレンマと一つ一つ丁寧に向き合い、対話や議論をしながら妥協点を見つけていく。独裁国のような徹底的な感染予防対策は取りにくいし、アジア諸国のように社会的プレッシャーに任せておけば人々が自ら忖度して気を使って求められる行動を取ってくれるという望みもない。その苦しいポジションに居続ける欧州では、けれど、こんな時にしかなかなか可視化されない為政者や学者や経営者などの苦悩や苦渋、そして一人一人の個人の無数の逡巡(子供を学校に送るのか、職場に行くのか、誘いを受けるか断るか、そしてマスクをするかしないかまでをも含め)がいやというほどあぶり出されてくる。
それはちょうど『白い病』の登場人物たちが、奇跡の治療と引き換えに何を手放せるのか、手放せないのか、という選択を迫られる、そんな状況と瓜二つだったりもする。そう、私たちは今、あらゆる価値観との板挟みに日々直面しているのである。マスク反対のデモはさすがに大げさ、と思った私ですら、じゃあ外出禁止令が今、出されることはどうかと問われれば、諸手を挙げて歓迎したくはないし、感染の危険を承知の上でたまにはお出かけしたい高齢者を責める気にもなれない。
今、現在、感染者として苦しんでいる友人たち、覚悟を決めてマスクをして、それでもオペラに出かけることを選んだ高齢者たち、医療崩壊の恐怖と背中合わせに日々、職務に励む医療関係者たち、そして、ひと月後のコンサートを実施するのかしないのか、いやできるのかできなくなるのか、という大問題に頭を抱える我が合唱団の団員の一人一人(高齢者の割合高し)の顔や心中を思い浮かべながらこれを書いている。今晩は、私が長く関わっている難民支援のミーティングがあり、行くかどうかかなり迷ったが、やはり出かけることにした。毎日が踏み絵。でもみんなで耐えて乗り越えるしかない。