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喫茶店

懐かしい。
透子は、ひとり喫茶店で紅茶を飲んでいた。ティーカップは一点の曇りもなく真っ白で、中で揺れる焦げ茶色の液体からは湯気が立ち上り、香ばしい香りが漂う。店内にはショパンのワルツが流れている。透子が小学生の頃、発表会で弾いた曲だ。
透子はこの喫茶店の事をよく知っていた。どの人が店員で、どの人がアルバイトなのか顔を見るだけで分かった。ここが、オーケストラでもカルテットでもピアノコンチェルトでもなく、ピアノソロの、しかもショパンばかりを流していることを知っていた。窓際のカウンター席よりも静かで人の目も気にならない壁側のテーブル席に座った方が落ち着けることを知っていた。
透子は手元の文庫本を静かに開いた。ある女性と猫が主人公の短編集だ。透子はすぐに読めて、堅苦しくない短編集やエッセイが好きだった。高校生の頃、よく喫茶店近くの書店で本を買ってこの場所で読んだ。明るく、浅く、軽い本を読んだ。そういう本が楽しかった。
大学生になって、難しい本ばかり読むようになった。鞄に三島由紀夫と芥川龍之介を詰め込むようになり、大好きだった薄い本は持ち歩いても読もうという気にならない。電車に乗っても、本のページを繰る代わりに、スマートフォンで何の為にもならない情報をスクロールするようになった。つまらないと分かっていて、それでも本を開くのが億劫になっていた。
今日の透子は、ほとんど二年ぶりにこの喫茶店へ来て、あの日のように大好きだった短編集を手にしている。ピアノの旋律が控えめに奏でられ、紅茶とサンドイッチの香りが鼻腔をくすぐる。透子は、わざと少し深めに息をして、その香りを楽しんだ。ページを繰る紙の音は、耳に優しく心地良い。
静かで穏やかな午後だ。雨はまだ止まない。耳を澄ますと、微かな雨音がしとしとと聞こえる。心配事も急いた気持ちも何もかも忘れ、頭の中は空っぽだが、花束をひとつ添えたような豊かさがそこにある。透子は、まるで高校生の頃に戻ったような気持ちだった。

雨は降っているが、外はまだ明るい。透子はふいに、妹の柔らかな栗色の髪を思い出した。読んでいたページの一節に「ふわふわした綿毛のようなもの」とあったせいかも知れない。それは、静まりかえっていた水面に一石を投じ、透子の心をざわつかせた。

透子には、幼い妹がいる。妹は透子が高校三年生の頃に生まれ、今年で三歳になる。透子によく懐き、幼稚園から帰ると透子にぴったりくっついて離れない。透子がトイレに行く時も後ろを付いて来ようとするほどだ。妹は透子のことを「とーちゃん」と呼ぶ。両親が「とうこちゃん」と呼ぶのを真似しようとしたが、上手く言えずに「とーちゃん」になってしまった。まだ舌ったらずの妹には難しかったようだ。透子は「とーちゃん」と呼ばれるとまるで自分が父親になったような気分になった。しかし、妹があんまり可愛いので、悪い気はしないどころか、少し誇らしささえ感じている。時々、本物の父ちゃんよりとーちゃんらしい気もした。
妹は栗色の薄い髪にぱっちりした大きな目、肌は白く、口はひよこのように小さい。鼻は少し上を向いているが、そこが愛嬌があって可愛い。妹は、大人しい性格で、怖がりだ。テレビでゴジラが街を踏み潰すシーンを観た時は、号泣し、透子は慌ててテレビを消した。強風で家がガタガタ鳴ったり、揺れたりすると、目をまん丸くして、急いでテーブルの下に隠れる。暗い部屋にはもちろん入れないし、掃除機やかき氷機やコーヒーメーカーの音は嫌いだ。
だが、妹は、無邪気で、怖いもの知らずなところもあり、思いついたことをすぐに躊躇いなく言葉にする。
ある時、透子は妹に聞かれたことがある。

とーちゃんは、お母さんに会ったことあるの?

妹は答えを待つように透子の顔をじっと見つめていた。
透子はもちろん母親に会ったことがあった。透子が高校生の頃まで、母は毎日家にいて、透子と父の帰りを待っていた。休日には、母は透子にピアノを教えてくれた。
妹が生まれてからは、赤ん坊を抱きながら、学校から帰ってくる透子と、会社から帰ってくる父を、おかえり、と言って出迎えた。
高校三年生の頃の透子は、おむつを替えたり、離乳食をあげたりして、母と一緒に妹の面倒を見た。時々、学校帰りに喫茶店へ寄り道して遅くなると、妹と一緒に母も寝ていることがあった。そんな時、透子は音を立てないようにドアを開けたり、階段を上ったりするのに苦労した。
妹は、夜泣きもひどかった。夜な夜なベッドから抜け出し、母と交代で抱っこして、ゆらゆら揺らしたり語りかけたりしながらあやしたことを、透子は昨日のことのように覚えている。
しかし、三歳になる妹は、母のことを何一つ覚えていない。夜泣きで母を困らせたことも、母のミルクを飲んでいたことも、母の肩に飲んだばかりのミルクをげっぷと一緒に全て吐き出していたことも、覚えていない。ベビーカーで公園をお散歩したことも、母の作ったお揃いの帽子を気に入っていたことも、もう全て忘れてしまっている。

とーちゃんは、お母さんに会ったことあるの?

妹に見つめられると、透子は何と答えるべきか分からなくなった。その純粋な眼差しが残酷なほど鋭く感じられ、逃げ出したくなった。

透子は普段、この喫茶店を素通りしていた。この二年、大学の授業とアルバイトと家事に追われ、ゆっくり好きな本を読む気にはなれなかった。
今日は特別ここに用事があったわけではない。
帰り際に急に雨が降り出して、透子の中で、プツンと何かが切れてしまった。幸い折り畳み傘も持っていたし、ブーツも履いていて、帰ろうと思えば何の苦もなかったが、透子はなぜか、この店に身体が吸い寄せられてしまってどうしようもなかった。
妹の幼稚園のお迎えに行かなくてはならないことも、夕飯の買い物や支度をしなくてはならないことも分かっていた。
けれど、今、この店に入らなければきっとやっていけないだろう。そんな風に思った。
喉も渇いていなければ、お腹も空いていなかった。何を注文するか考えずに店に入ったが、メニューを見れば手書きの「ストレートティー」という文字が自然と目に入った。高校生の頃、透子はいつもこれを頼んでいた。味が良いから、とか、紅茶が好きだから、という理由ではなく、単に全てのメニューの中で一番安かったからだった。何の銘柄のどんな種類の茶葉か知らなかったし、仮に知っていたとしても味や香りの違いはわからなかっただろう。それでも、透子はこの店のストレートティーを気に入っていた。この店のストレートティーは、必ず真っ白の美しいティーカップと一緒に出てくる。透子はそれが何となく好きだった。小ぶりで丸っこく、普通のティーカップよりも薄張りである。このティーカップを噛み砕いて食べれば甘いに違いない、と透子は想像したことがある。口元に運ぶと、お誕生日ケーキの上の砂糖でできたネームプレートを思い出した。そして、その感じがまた懐かしかった。

ページをめくると、カサカサと乾いた紙の音が響き、新しい文字たちが顔を覗かせる。店内には、華麗なる大演舞曲が流れる。ショパンのワルツ集は一周して二週目に入ったらしい。透子は、残り少なくなったストレートティーをすすりながら、BGMに耳を傾けた。透子は、この曲がCDの一番最初の曲だということを知っていた。母が好きでよく流したり、自分で弾いたりしていたからだった。
その華麗な旋律を聞きながら、透子は、家にもうピアノがないことを、ぼんやりと、しかし初めて自覚した。

透子の母は、透子が大学に入る頃、事故で死んだ。それは、あまりに呆気なく、現実味もなく、泣いて良いのか、悲しんで良いのか、透子はわからなくなっていた。ただ、これから妹を育て、母の代わりに家族を守っていくのが姉である自分の役目であるという事実が、一瞬にして肩にのしかかって来たと分かった。
透子は、右も左も見なかった。考えるのは、今日のことと明日のことくらいで、遠い先の未来のことや、母と過ごした過去のことは考えなかった。
母が死んでから、父は病気がちになり、家に引きこもるようになった。安く小さなアパートへと引っ越したとき、沢山の家具と一緒にピアノも売ってしまった。

透子は、薄く、浅く、明るい本のページをめくる。猫が欠伸をして、顎を外したという間抜けな場面だ。ページ番号は67から68へと移った。

ふと、おかえり、と言う母の顔が透子の頭の中をよぎった。なんだか寂しい。透子は胸が締め付けられる思いがした。知らぬ間に閉じていたはずの傷が、何かの拍子に開いてしまったようだった。
ピアノの音というのは、こんなにも儚げで切ないものだっただろうか。

母が好きだった華麗なる大円舞曲は、優しく、滑らかで、美しい。
透子は、ツルツルした鍵盤の感触と、その重みが無性に恋しくなった。

一緒にピアノを弾きたい。
今、家に帰れば、母が帰りを待っているかもしれない。

しかし、透子はそれを繰り返しながら、頭の隅に幼い妹の姿があることを認めざるを得なかった。
もうピアノを弾くことはできないだろう、と透子は思う。それは、単にピアノが下手になってしまったから、というだけではなかった。

雨がいつの間にか上がっている。透子は、外れた猫の顎が元に戻ると、本を閉じて鞄にしまった。幼稚園のお迎えに行かなくてはならない。
たとえ同じ場所で同じことをしていても、もう母がいた頃の自分には戻れない。
透子はひとり静かにそれを悟った。

#小説 #喫茶店 #散文 #読み物

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