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浴そうに 深く張られた湯船の色と 朝の光の色とは同じ
お湯につかる。
お湯につかるたびに、
「ああ。今日もまた、無事この湯を獲得することができた。」と思う。
「この熱も、この水圧も、僕が、本日の労働で得たものなのだ。」と思う。
そう思うのは、単に僕が、あつい湯につかるのを好んでいるからかもしれない。
しかし言い過ぎでもなく、そのくらい、僕にとっては重要なことだ。
学生の頃、夜通し何かにふけっては、朝方風呂
に入り登校するというのをしばしばやっていた。
大抵電気を消した時の、カーテンからこぼれた光で現実に戻った。
光の量が増していく中で、数分間、部屋が青く染まるのが好きだった。
その時の、朝の光の青と、厚く張った、湯の底の青は、それはそれは心地よいものだった。
今の家に、その時間は、色は、訪れない。
重要なのはそちらかもしれない。
追伸
僕は大きくなったねの言葉に、縛られ続けるし生かされ続けるのだ、多分。