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梶井基次郎の檸檬に出てくるびいどろの味
梶井基次郎の檸檬は有名な作品だ。作中で主人公が挙げる「見すぼらしくて美しいもの」の中に、「びいどろの味」がある。
あのびいどろの味ほど幽かな涼しい味があるものか。
これを読むと、あの日、夕日の射す畳の居間で、口に含んだおはじきの味がよみがえる。小さな正方形の座卓に、ぶちまけられた透き通るおはじき。夕日がつくる、赤青緑の、縁取りのように輝く影。そして温められた畳の匂いまで。
読むたび心底共感している。今日は、僕の共感をまとめてみようと思う。
「涼しい味」
「びいどろの味」は「涼しい味」だと主人公は述べている。涼しい、という言葉はそれだけで夏を連想させる、ちょっとずるい。縁側に吊られた風鈴、バケツに冷やされたラムネ瓶、校舎の日陰に吹く風。少し懐かしいイメージが、僕の中では付与されている。
さて、びいどろを口に含んだ際の「涼しい」というと、硝子の冷たさだ。実際の温度はもとより、硬くつるりとした触感が、氷とは違う冷たさを与える。それは決して鋭くなく、舌の上に静置しておくだけですぅっと広がっていく。これが涼しい。
「幽かな」味
またそれが「幽か」なのがびいどろだ。「微かな」ではなく「幽かな」である。確かに得られる涼しさは、風鈴やラムネ瓶と比べると微々たるものだが、その量はあまり重要ではない。
口に含まれたびいどろは、口内をすべり、歯をカチカチ言わせ、ものの三秒で温まってしまう。それでもなお、びいどろの触感が、霞のような涼しさを持続的に与えてくるのだ。舌で念入りに転がしながら、その霞のような甘い涼しさを、触覚を総動員していつまでも堪能してしまう。この洞穴の奥にあるような距離感。だから幽かなのだ。
以上のように、僕はこの一文に共感している。この梶井基次郎がしたためた「びいどろの味」に、共感する人はどのくらいいるんだろうか。ちょっと興味が出てきたので、明日誰かと会ったら聞いてみよう。
ところで主人公にとって、びいどろの味は「見すぼらしくて美しいもの」なんだそうだ。作中では、びいどろのほかに、崩れた土塀の裏で勢いよく咲く向日葵や、安っぽい絵の具で縞模様をつけられた花火の束なんかを挙げている。夏休みの絵日記に登場しそうな面々だ。
きっと宿題をしていたころはどれも輝いて見えたのに、なぜ見すぼらしく感じたんだろうか。僕は文学を知らないので、確かなことは読み取れない。
もしもこの時の主人公が僕で、そんな風に感じたとしたら、それは僕がまだ青春を生きているからだと思う。青春ってなんだかよくわかっていないけれど、自分に対する焦りとか、変化への欲望とか、内向きの悩みが大半を占めている時分。昔感じた輝きが、見すぼらしく、美しく見えるのは、まだその時分を生きているからだろう。
幸か不幸か、僕の青春は過ぎ去ろうとしている。安定した僕は過ごしやすいけれど、必死にあがいていた僕も悪くなかったな。