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ハードルを越えてゴールまで

#創作大賞2023
#エッセイ部門

はじめに

 近年色々な事柄の枕詞として「人生100年の時代」と言われるようになってきた。これに伴い、人生のゴールがどんどん先になっている。
 私の周りやテレビ等のメディアで見ても、かなりの高齢者が各分野で活躍している。こういう人々は自らの環境の変化にも柔軟に対応して、これまでの経験やそれを活かした学びで、自立して生き続けているのだろう。70歳、80歳、90歳と各年代で乗り越えるべき体調の変化や人生の浮沈などもあるかもしれないが、それに負けずに能動的であったり活動的であったりして一つひとつ立ちはだかるハードルを乗り越えているのであろう。
 さて、私自身もこれから各年代のハードルを越えて行かなければならないが、どのように生きていけばよいのか助走を始めてみようと思う。

 加えて、今年に入って国民の注目が集まり社会的に期待されたことが残念な結果となりハードルを越えられない事象があったので、その三つについて私なりの残念さを話してみたい。
 一方、過去に上手くいかなかったが、そのことを教訓にしてハードルを越え、これはこれからの日本にとっていいことだと思われる事象があったので、その嬉しいと思ったことにも触れてみたい。

その1 私の自由なる時間について

 定年で仕事を辞め、忙しい方には申し訳ないが、私の場合「自由なる時間」ができたので考えてみた。

 厚生労働省が発表した「令和2年都道府県別生命表の概況」によると日本人の平均寿命は男性が81.49歳、女性が87.60歳となっている。又平均余命は自分に当てはめた場合、男性70歳で16.09歳となっている。つまり、災難に遭うこともなく、大きな病気でベッドに横たわることもないと仮定した場合、私の年齢ではあと16年は生きることができて「自由なる時間」が続くということである。
 
 さて、そこで考える。「自由なる時間」の中をどのように暮らしていくかが私にとっての問題となる。これまでは仕事時間があり、それから派生する仕事関係に付属する時間も含めればそうは自由になる時間はなかった。しかし、その大部分がなくなった今、その時間はそっくり私の自由になる時間に置き換わる。

 これだけの自由になる時間があればこれからの生きている間、何か一つくらい自分が納得できる何かができそうな気になる。例えば、大学生は4年間で一定の専門課程を終わらせることができ、そしてその4年間で培ったものは次の職業生活に活かすことができる。

 私のこれからの16年を大学生並みに4年を1クールと考えた場合、4クールあることになる。1クールでやったことを高めていくか、1クール毎に何か異なることをやるか、二つの方法があるように思われる。しかし、問題がないわけではない。現在の年齢に毎年年齢が重なるので、健康や脳の働きの具合から判断して、大学生の1クールと同じようには事は進まないのではないか。また、大学生は専門の先生や先輩等から教えられる部分が多いが私の場合、そのような機会はない。

 そう考えると私のこれからの16年間はどうも大学生の4クールには等しくはならない。数学記号でいえば不等号の関係である。それも相当大きな不等号である。当然と言えば当然だが、それくらいの意識を持ってこれからの時間を過ごすことは大いに意義がありそうに思える。
 若い人は時間を意識することはそれほどないだろうが、私の年齢になると意識してしまう。その意識はこれからの時間というなかで、今という時間をどう生きるかということに重きがある。それは、明日や明後日は今という時間の先にあるので、今を生きなければならないという意識である。

 毎日寝る前に一日を振り返り、「なんとか良い一日が送れた」と抽象的な時間の経過を具象化してみる。それを繰り返すことにより生活のリズムができるのではないか。このようなリズムから一つの流れができれば次第に生活の中心軸が形成され、少しでも自分が変わっていく感触を得られるような気がする。「自由なる時間」を源流とし、今という時間を生きていこうと思う。  

その2 最近残念だと思ったこと


 日本は1990年代から続く「失われた30年」と言われる経済の低迷が続き、国民にとって経済成長の恩恵がなく最も大切な賃金の上昇もほとんどなく、いつの間にか世界との賃金格差が相当ついたように思われる(2021年OECD-経済協力開発機構-の統計によると38カ国中24位、1位米国の約1/2)。加えて最近の米国の金利上昇、ウクライナ戦争に端を発する資源や食料品の高騰、中国やロシアとの関係など不安定な要素が多く「失われた30年」が引き続く恐れもある。「失われた40年」「失われた50年」など考えたくない。
 
  そのような中、私のようなごく普通の国民の目線で捉えた事柄の中で最近とても残念だと思われることが三つあった。この三つの事象が「失われた30年」の延長線上にあるような気がするのは私だけではなかろう。これらの事象が起こった経過や背景は専門家の分析や評価に任せるが、ここで述べたいのは一国民としての思いである。

1 「三菱スペースジェット=旧MRJ」事業撤退


 一つ目は、三菱重工業が国産初の小型ジェット旅客機の製造からついに撤退したことである(2023年2月7日)。ついにというのは、今から15年前の2008年に事業化を決めた時点では、私が若い頃に飛んでいたYS-11以来の国産旅客機が日本そして世界の空を飛ぶのかという大きな期待が巻き起こったが、開発の段階の度重なる設計変更に伴う納期の延期などで我々一般国民には詳細は不明であるが、次第に「MRJ大丈夫か」という視点に変化してきていた。
 そして、幻の飛行機は何処に行ったのか、フェイドアウトしてしまった。

 日本は第二次世界大戦の後、敗戦によりGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から日本に残存する飛行機は解体させられ、製造することはもちろん研究するすることさえも出来なくなった。敗戦とはそういうものだった。日本が今後米国や英国などと対立することなく、二度と立ち上がれないようにするのが戦勝国の論理である。
 YS-11にしても、1950年に勃発した朝鮮戦争で前線に近い日本国内でのアメリカ軍の飛行機の修理の必要性が高まったり、国際政治の環境が変わってきたり、また、徐々にではあるが国内での飛行機作りの機運が盛り上がってきたりしての開発であった。
 そのような中、諸外国はそれでも日本に飛行機を作らせず、自国の飛行機を日本に売り込もうとするなどの圧力を加えた。困難な状況下ではあったが、国の予算獲得など次々の課題を解決しつつ、1962年にやっと初飛行に臨みそれは成功した。しかし、その後も商業ベースでの飛行までには機体の安定性などクリアすべき問題点は多かったが、改良を重ね1965年に全日空など航空各社への納入が始まった。
 とりあえずYS-11は日本の空だけでなく海外への輸出も行われたが、製造者である日本航空機製造の組織運営や販路確保の困難性から経営は行き詰まり残念ながら1973年には生産終了となった。

 皮肉にもYS-11の後継として計画されたのがMJRであった。計画当初から国内や海外の航空会社から受注を受け、機体の公開や2015年の初飛行の成功もあり、機運は大いに盛り上がり今後の期待があったにも拘わらず、その後の度重なる設計変更による納期の延期で、予算の削減、事業の凍結表明を経て、今回の事業撤退に至った。
 YS-11が生産終了に至った要因の一つである寄せ集めで、責任の所在が不明である組織運営や経営に対する専門性の欠如などがどこまで検証され活かされたか疑問である。
 
 我々国民始め産業界から、日本の主力産業である「陸の自動車産業」に続き、「空の飛行機産業」となるのかと大いに期待が高まっていた。航空産業の場合は、自動車産業と比較してもより精度の高い部品が要求される。今回の事業の撤退により、日本の得意とする改良に改良を重ねて製品を作っていくという過程が失われ、裾野が広い航空産業界にとっても大きな損失と思われる。継続性の中で培われていく産業間の連携や人材の育成や雇用の面でも大きな影響がでてくるだろう。
 ジェット旅客機の国産化計画がこのまま潰えることはないだろうが、困難の中、これからいつ、どのような力が結集して「もう一度やろう」、「可能性はある」、「時代を変えよう」となるのか、私を始め国民は期待していると思う。
 向かい風があってこそ飛行機は飛び上がることは開発に関係する技術者が一番理解しているはずである。技術者だけでなく関係者がハードルを越え同じゴールに向かって進むことを願っている。

2 新型ロケット「H3」初号機打ち上げ失敗


 二つ目は、2023年3月7日にJAXAと三菱重工業が打ち上げた新型の「H3」ロケット試験機1号機が打ち上げに失敗したことである。「H2A」の後継機として開発に9年の歳月を要し、当初2月に計画していたものが直前で中止となり、不具合を調整しての再度の打ち上げであった。
 今回の「H3」打ち上げはコストの削減を目的とし、コスト削減で打ち上げ回数が増加すれば、アメリカの民間事業者や中国の台頭で今後激化する宇宙開発で日本が優位に立てるかが問われるものであった。JAXAは具体的には毎年6機程度を打ち上げ、今後拡大する商業衛星のニーズに対応していこうとしていた。2014年度から開発が始まり2020年度の1号機の打ち上げを目指したが延期、更に2022年度にも延期して今回の打ち上げ中止の後、打ち上げ失敗という経過をたどっている。開発から9年の思いは重かったのか。

 専門家の話では、1段目エンジンは着火しており、1段目エンジンを切り離すと次は2段目エンジンに着火させると良かった訳であるが、どうも着火しなかったらしい。今回は幸いエンジンのトラブルではなく、電気系統のトラブルであり、ロケットの打ち上げは災害時に活躍する地球観測衛星や気象衛星など、またGPSを載せたり我々の生活に直結する部分も大きいので、この当たりのハードルを越え早期の打ち上げ成功を目指して欲しい。
 

3 アイスペース社の月面探査機着陸失敗

 民間企業では世界初の月面着陸になるのかと期待されたアイスペース社(ispace)の月面探査機の着陸が失敗に終わった(2023年4月26日)。

 前述の「三菱スペースジェット」が同年2月及び新型ロケット「H3」が同年3月と国民の期待する結果が出せなかったので、いやが上にも注目度は高まった。
 アメリカの民間企業スペースXのファルコン9ロケットによって、2022年12月に打ち上げられ4ヶ月間の航行の後の月面着陸計画であった。
 2023年4月中旬以降、着陸予定日(4月26日)の数日前からメディアでは月面車(ローバーRaschid:アラブ首長国連邦が開発)の車輪が月面のゴツゴツした表面をその凹凸に合わせながら上手く進んでいく映像を何度も流していた。映像の流れる頻度に伴い、日本の宇宙ベンチャー企業が民間としてアメリカや中国に先んじて月面に着陸するのかと大いに期待が高まっていた(政府機関レベルでは、旧ソ連、米国、中国が月面着陸に成功している。有人では米国がアポロ11号以降6回成功している)。ベンチャー企業なので成功すればという期待感から株価の値動きの面でも相場が大いに賑わったようだ(年初来高値日4/19、年初来安値日5/12)。

 着陸船のカメラが撮影した青い地球の姿も伝えられ、気持ちも高揚してきた。着陸予定時刻の直前まで地球との交信も保たれていた。いよいよ、軟着陸だがこれが最大の難関らしい。政府機関レベルではあるが、2019年にインドもイスラエルも軟着陸に失敗している。月の重力が働くので計算された高度から減速しないといけないのだ。しかも限られた燃料であり燃料がなくなると月面にハードランディングしてしまう。
 4月26日午前1時40分頃の着陸予定であったが通信が途絶えた。
 着陸船が月面までの距離を誤認して逆噴射の燃料切れで着陸船が月面に衝突してしまったらしい。その後は通信が途絶え、ミッションが失敗に終わったことが会社側から発表された。

 今回は失敗に終わったが、着陸直前まではデータが送信されていたので、それなりの成果はあったと思われる。今後、技術者からも色々なアイデアが出されるであろうし、目的に向かって議論を進めれば判断は適切になっていくはずである。これから2024年は2回、2025年は3回と計画されている。今回はローバーRaschidの他にも貨物が搭載されていたが、今後どのような貨物が搭載されるかも興味深い。様々な業種の製品が搭載されるのであろう。
 今回のハードルをどのように越えて行くのか注目である。国民に感動を届け、その先には、月面に基地ができ必要な物資を定期的に輸送するサービスができあがる時代がくるのであろう。
 

その3 最近嬉しく思ったこと

 混乱のスーダンに今度は日本の飛行機が飛んだ

 2023年4月29日、アフリカの内戦状態にあるスーダンから日本人65人が日本人の手によって無事に日本に帰国することができた。

 スーダンでは国内軍事勢力による戦闘が激化し、その過程でインフラが寸断され、食糧や水の欠乏を始めとし国民の日常生活が奪われ、亡くなる人がでたり病人や怪我人の治療ができないなど人道的危機が深刻している。
 このような中でスーダン本国だけで不足する分野である医療や教育などに協力してきたのは日本人だけでなく、諸外国の人々も当然いる。戦闘の激化により日本国政府を始め、諸外国政府も自国民救出に一刻の猶予もなくなってきた。

 スーダン国内の二つの軍事勢力の72時間停戦協定が結ばれたようだが、それぞれ組織として末端までの統制はとれず、散発的に銃声が鳴り響く中では、首都ハルツームのハルツーム国際空港は使えず比較的安全な場所で救援の飛行機が待機することになったため、避難する人々は自動車による陸路での移動の後に飛行機に搭乗するという過酷な状態に置かれた。治安の悪い中、恐怖の中30時間以上も移動したとのことである。
 飛行機の待機する場所まで異動して、避難の人々は自衛隊員や自衛隊機の姿を見てを見て、日本が助けに来てくれたのだと思ったことであろう。

 混乱のスーダン情勢のニュースを見ながら思い出すことがあった。
 かつてイラン・イラク戦争(1980年~1988年)の際、1985年3月にイランの首都テヘランから戦禍の中、救出された日本人のことである。

 当時テヘランでは450人を超える日本人商社マンや学校の教師などが日本とイランのために活動していた。1985年3月にサダム・フセインのイラクがテヘランを空爆して、街は破壊され日本人始め外国人の命も脅かされるようになった。イラクは無差別空爆を予告したためテヘランにいる外国人は予告時刻が迫る中、自国政府の差し向ける救出機の到来を待ち続けた。各国は自国民を救出するため、空爆の恐怖の中救出機を次々に飛ばしたのである。

 しかし、日本からの飛行機は飛んでこなかった。なぜか。当時の日本は法的に自衛隊機を外国に飛ばすことができず、この危機迫る戦禍の中、民間機(日本航空)も危険を冒せずテヘラン在住の日本人は出国できない状況になったのである。諸外国の飛行機が次々と飛び立つ中、とり残された日本人は絶望の淵に立たされたのである。これらの人々は日本のことをどう思ったか。

 しかしこの状況の中で、現地の日本大使館はパイプのあるトルコ政府とのギリギリの交渉を行っていたのである。トルコ自体も自国民を救わなければならない状況であり、テヘランの空港にはトルコ人が自国の飛行機に乗るため多数待機していたのである。だが、驚くべき事にトルコ政府は自国民ではなく日本人を乗せることに決定したのである。

 つまり、日本の要請に応じ、トルコ政府は自国民にではなく日本人を乗せて民間旅客機を飛ばして日本人を無事帰国させている(1985年・昭和60年)。
 旅客機がイラン領内を飛行する間、日本人乗客は撃墜されるのではないかという恐怖で押し黙っていた。旅客機がやっとトルコ領内に入り機長が「Welcome to Turkey」とアナウンスしたらどっと歓声が上がったという。やっとの思いで恐怖から開放された瞬間であったのだ。
 一方、旅客機を日本人のために飛ばしたので、空港に待機していた多数のトルコの人々は自動車を自国まで危険な陸路に走らせたのである。
 
 ここに至って日本とトルコの間にある、ある歴史がトルコの人々に忘れられることなく引き継がれていたのである。

 その救出劇の背景には日本とトルコの長い歴史があった。それは、明治時代の和歌山県沖のトルコ海軍の海難事故に対する、貧しいながらも人間的な日本人のこの事故の犠牲者に対する対応への恩義があったというから、かつての日本人の真心がトルコ政府やトルコの人々を動かし、危険を顧みずの救出劇があったという、知れば知るほど感動の歴史である。
 このように、かつて日本人とトルコ人が心で交わり相互作用して、その時の予期せぬ救出劇が生まれた訳である。このような事象の積み重ねがいつか成果を生むという教えに繋がるのではないか。

その4 邦人救出余話

 エルトゥールル号海難事故と日本・トルコの友好関係

 日本人にはあまり知られていないが、トルコ国民は日本に対して非常に良い印象を持っているということである。そこには理由がある。今から遡ること明治時代(1890年・明治23年)、トルコがオスマン帝国の頃にオスマン帝国海軍が11ヶ月かけて日本に派遣され、明治天皇に表敬訪問を行ったその帰国の航海中悪天候(9月の台風)のため、帆船であった軍艦エルトゥールル号が和歌山県沖で遭難して五百人以上の乗組員が犠牲となった海難事故が発生した際の日本人の対応にある。

 海難事故があった付近の漁村では、住民総出で台風で大荒れの海の中を生存者の救出に当たったという。当時日本にどこにでもあるような貧しい村であったが、住民は食糧を出し合って病気と怪我に苦しんでいた生存者に与えた。当時貴重な卵を産むための鶏も食事に供したという。

 しかも、その後、明治政府は2隻の軍艦に彼ら生存者69人を乗せてオスマン帝国の首都イスタンブールまで送り届けたという(余談だが、日露戦争での日本海海戦(1905年)の名参謀秋山真之が乗組員の一員であったという、今となっては驚きの歴史もある)。
 又、民間人でありながら日本各地から集まった義援金を持って首都イスタンブールを訪れた者もおり、オスマン帝国国民は東アジアに興って間もない日本に非常な関心を持った。それから後、未だ小国であった日本が日露戦争で大国ロシアに勝利すると、ロシアの南下政策に苦しんでいたオスマン帝国の国民は日本の快挙に熱狂したという。

 前述のイラン・イラク戦争の際の、テヘランからの救出劇にはこのような歴史の背景があったのである。

おわりに

 何ごとであれ、事をなそうとすればそこに困難が生じてくる。個人でのことであったり、会社の事業であったり、様々な局面でハードルは立ちはだかるものであろう。我々はこのハードルをいかにして越えてゴールに向かうのが今回のテーマであった。
 
 まず、自分の年齢のこれからの各年代に横たわるハードルを越えること。これから、80歳、90歳・・・そして、説明はできなくとも感じることができる、心がふわっとして、澄み切った心で大きな宇宙観に包まれる、その刹那が私のゴールになるだろう。

 次に、最近、国産ジェット機事業からの撤退、ロケット打ち上げ事業の失敗及び民間月面探査機の着陸失敗と国民の注目する事業が立て続けに期待を裏切る結果になっている。今後、これらが失敗を教訓としてハードルをいかに越えていくのか、そしてその先にあるゴールへ向かえるのか。

 これらの技術的な課題を一つ一つ当たり前のところまで持って行く技術力を作り上げていってもらいたい。そのためには、事業を推進するリーダーシップの下、課題解決のための議論を恐れず、同じベクトルを持つ関係者が集まり、ゴールに向かって100%以上の力を結集することが求められると思う。
  

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