ちょっと不幸が落ち着くの。
「考え過ぎはマイナス。今を楽しめればそれでいいとおもうよ」
元彼からそう言われ別れてよかったと再認識した。その言葉70代の仕事をリタイアした人かもうこの先働かなくても最後まで生活が出来る絶対成功者が言うならカッコいいけど40代の普通のサラリーマンが言うセリフとしては残念だ。別れてよかった。
ある映画を見た話を彼にした。
「またハードル下げるの?そしてここがまた幸せだって思って生きていくの?」
みたいな意味合いのセリフがとても心に響いた。その表現力が素晴らしくこの言葉を紡げるのはほんとに尊敬すると言う話をした時だった。
「俺はハードルを下げる事が不幸だとは思わない。今が幸せだと思えるかどうかだ.」
と彼は言った。
だれも不幸な話はしてないのに表現力の話をしてるのにと思った時点でこの人にこの話をするのをやめてしまえばよかったのに私の自我がつい出てしまった。
「向上心はもっと幸せになりたいからうまれるのも事実だよ。しあわせの位置はそれぞれだけど…ただ今回は何よりこの表現力に惚れ惚れした。」
そういうと彼は
「考え過ぎはマイナス。今を楽しめればそれでいいと思うよ」
と言う冒頭のセリフを言った。
考えすぎがマイナス。確かに考えすぎる分苦しみも深く成るのだろう。ただその深さを理解することが自分探しになり言葉や生きる事が深くつながるとおもうのだが…
何となくこの話は平行線だし理解するつもりもなさそうだな…そう思って話題を切り替えた。今が楽しければいいのだから。
幸せのハードルを下げてというというか視野を狭めてというかそうする事によって幸せを感じやすくなるのは事実だけどそもそも幸せになりたい病はどこからきたのだろう。
私は少し不幸な方が落ち着く。幸せいっぱいだと不安になる。幸せにならなきゃいけない病。その通り一辺倒な考えが人を不幸にしている様な気がして彼もきっと痛いとかつかれたんだなぁ。
そう思った。考え過ぎはマイナスというトゲトゲしい言葉は彼の精一杯の反抗なんだろう。こんな事で抗っても仕方ないのに…考えないから幸せに囚われてしまうんだな…そう思う事にした。
世の中にはいろんな人がいる。彼は夜とても献身的な愛を表現して尽くしてくれたがそれも今が楽しければよかったからこそ成せる技なのだろう。そんなに尽くされるとよかったと言うしかなくなるのに…よかったの意味が伝わらない…考えが足りないのだ…
誰もが世の中の人が言う幸せになる必要はない。少しだけ不幸が居心地がいい人だっているし幸せを追いかける過程が気持ちいい人もいるしどん底不幸でしか生きる事の実感をできない人だっているのだから…幸せに囚われて自分の居心地のいい場所がわからなくならない様にしなくては…
そんな事を思いながら別れてよかったと思った話