スイカを知らなかったときの好きには戻れない。
今日も梅雨真っ盛り。雨がしとしと振り続けている。梅雨だから色々考える。なんとなく。
今日のお題は、大人になってからの付き合うってなんだ?
学生時代は、告白という難関を通ってでないと“付き合う“ということができなかった。
『好きです。付き合ってください』
それが恋の始まりだった。好きかどうかがとても大切でそれをストレートに伝えることをしないと始めることができなかった。
あの頃の「好き」ってなんだったんだろう。
気づいたらその人のことばかり考えていた。美味しいものを食べるとその人にも食べて欲しいと思った。楽しい事があると一緒にいればよかったのにと思った。いい事があると一番先に話したいと思った。目が合うとどきっとした。なんだか特別な感じかした。誰か別の女の子と話してると悲しくなった。私がその人の中で一番でいたいと思った。
あの頃の「好き」ってそういう感じだった。
その中には、寂しいとか体裁とかそんなものは何もなかった。
私はスイカが大好きだ。ハウスのスイカが八百屋にで始めるのは、5月のゴールデンウィークを過ぎた頃だ。まだ少し高いのだけれど私は、スイカが好きでこの時期からスイカを買う。終わりは9月中旬ぐらい。スイカが好きすぎて、何日間かスイカだけを食べ続け倒れてしまった事がある。それほど好きなのだ。倒れたけれどあの時は、大人になって良かったと思った。毎日スイカが食べれて、幸せすぎて、心の栄養は満点で幸せ絶頂だったのに、体の栄養は、ゼロだった。
スイカと出会わなければスイカを食べられない辛い冬を過ごすこともないけれど、5月中旬八百屋にスイカが並んだ時のトキメキと、これからの4ヶ月が突然色づくあのアドレナリンの放出度合いは、毎年止めようがない。美味しさを知ってしまったからこその苦しみ。ない時期があるから得たときの快楽。
もちろん今の時代お金とネットを駆使すれば1年中食べる事ができる。それでも私はこの快楽の虜なのか、この次期しか食べない。かっこよく書いたけど正直なところ懐具合の問題もある。
話が、それにそれにそれ過ぎたけれど、本題に戻そう。
寂しいは、寂しくないを知らない人にはない感情なんだという事に気づいたのは最近だ。誰かの肌に触れ自分の体温を確認し、生きているんだと実感する?私は今一人じゃないんだ実感するのもそれを知らない人には、欲しくならない感情なんだ。
そうして色々なことを経験して私たちは、欲しいものがどんどん増えていく。知らなければ欲しくもなかったのに……
もうあの頃の好きとは違う「好き」が私の中には、できてしまっているのだ。複雑で混沌とした色んなものが混ざった「好き」が……
いろんなものを知ってしまった後にあの頃の「好き」とはちがったものが欲しくなって付き合うときは、「好き」よりも欲しいが勝ってしまう。自分には、嘘をつきたくないから『察してね』とばかりに『そういうことです』と言葉を濁しながら付き合うというのが始まることがたくさんある。そして新たに好きの先にあった「情」や「支え合い」を探しあってあの時は、「好き」から始まっていたんだと自分にいい聞かせる。
『ほら、結果一緒だったじゃない。好きだったんだよ』
私達は、知ってる。あの頃の「好き」がきっと本当の好きなんだって。でもスイカの味を知ってしまった私は、もうスイカを知らなかったことにはできないのだ。
大人の「好き」は、複雑だ。