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楽しく過ごすためにわかって欲しい人を5人にした話。

先日両親を旅行に誘った。突然だったし誘うことを少し悩んだりもしたけれど後何年きちんと歩いて旅行に行けるかどうかわからないと考えるとこの1回はとても貴重だと思った。もうすぐ70になる両親と年に1度旅行したとしても80まで10回しかないのだ。もちろん回数が大切というわけでは無いけれど数が増えるだけ思い出の数も増えると思うとちょっと無理してでも誘ってみようと思ったのだ。

すると『いいよ。行こう』と答えが返ってきた。すぐに3日間の旅行の手配をし行程を組んだ。その翌日、父から『用事ができたのでやっぱり行けない』と連絡が来た。

私は、少しイラッとした。
・父の用事が自分との旅行より大切だと判断されたから
・私の中と父の中での旅行に対する価値観が違うことが分かったから
・すでに行程を立てたのにその苦労水の泡
・私も行きたかったのに行けなくなった。
いらっとの原因は、このくらいだろうか。

こうやって整理してこのことを一気にまとめて解決できる方法はないだろうかと考えてたら気づいてしまった。
『理解してもらいたい』
この気持ちをなくすことによって全て解決できるではないか。言い換えれば、わかってくれているという傲慢さと言ってもいい。
例えば、父の用事が旅行より大切だということ。その用事がどれだけ大切なことか説明してくれたとして私はここまでイラッとしただろうか。それにプラスして今回の旅行も大切に思ってると言ってくれたならば、私は決してイラッとしなかっただろう。
旅行に対する価値観の違いも、色々思ってくれてありがとうと一言だけでも言われれば落ち着いたかもしれない。
すでに行程を立てたのだって、勝手に自分でやったことなのにやっぱりどこかでここまでやったのにという気持ちがあるのだ。
私は、私自身をイライラさせてしまっていたのだ。きっとわかってくれているという期待と何より私自身の傲慢さ…つまり父は私の事など全くわかってないしもちろん逆も然り。
『わかってほしい』『わかってもらっているはずだ』そういう気持ちが私の中でのイライラを増幅させてしまっていたのだ。私は、わかってくれてるはずという落とし穴にハマってしまっていた。

はぁめんどくさい。
わかって欲しいと思うこの欲求がめんどくさい。
もっと言えばわかってくれてるはずだと期待してしまう私の気持ちがめんどくさい。
人はそれぞれだし期待しても同じことを考えてるとは限ら無いと、頭ではわかっているのに心の理解が足りて無いのだ。

昔ある人に、言われたことが頭をよぎった
『まずは、自分の中でこの人だけは大切って思う人を決めること。多分五人もいないと思うよ』
彼女は、私にそう言ったのだ。その彼女がいうには、この人って人意外とは、適当に付き合ってればいいんだよ。その代わりその大切な5人だけには、誤解があると思ったらどれだけ時間がかかっても話をするし、何か気になったら聞く。例えばその人が殺人を犯したとしたら、関わらないと思うのではなく、理由があると信じて疑わない。必ずその理由を本人から聞きたいと思う。ただそれだけのことなんだよ。全ての人にわかってもらうことは無理だし、それと一緒で理解することも無理だからねって教わった。

今頃になってわかったんだよね。そのことが。本当に大切な人を大切にするって多分そのまま自分を大切にすることに繋がる。昔一緒に飲んでた人が、その後バイクで帰ったらしく飲酒運転で捕まった。私は、かかわりたくないなと正直思ったのを思い出した。みんなに平等なんてない分みんながわかってくれるってのもない。

子供から大人になるにつれていろんなことを諦めてきた。アイドルになるのが夢ではなくなり、看護師さんになることも夢リストから消え、最近では、お嫁さんになることも夢リストから消えた。諦めというよりは、自分の器がわかってきて、現実が見えてきて、可能性を測れるようになってきたのだ。なのに『考えればわかるでしょ』の沼にハマって人から理解してもらうことを諦めきれてなかった。わかってもらうためには、たくさんの説明をしなければならないし相手にもそれなりの経験が必要だ。経験が無いのであればそれなりの話術を持って話をしなければ伝わらない。それを全ての関わっている人にする器が私にはないのだと認めなければ成らない。それがきっとこれから先私が、『わかって欲しい』にとらわれないために必要なことなのだ。

5人それが私のキャパなのかわからない。もしかしたら私が大切にできる人は3人かもしれない。それでもまずは、それを始めよう。この大切な人の箱は、出入り自由だ。

そう決めてまずは、誰かと話をしよう。

大切な人を大切にしよう。

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