見出し画像

ちょっとの意識で抗い続けたい。

最近、とあるものにとても驚いている。それはAI。お題を伝えるだけでそれっぽいイラストを書いたり、文章を作ってくれる。とても便利な世の中になったものだ。

たとえば、Twitterではこんな懸念がされていた。子どもたちが夏休みに書いて提出する読書感想文が、実はチャットAIで作られた文章であるという可能性が生まれるというものだ。

読書感想文はコンクールに出品される場合がある。となると、審査があって優秀な作品を書いた人には賞状が送られる。そんな優れた文章に紛れてAIが作った文章があったらどうだろうか。実際に子どもが書いた文章が入選にならず、AIが作った文章が入選になってしまうかもしれないのだ。果たしてそれは、本当に子どもが伝えたかったことなのだろうか。書きたかったものなのだろうか。

そんな心もこもっていない文章が世の中に出ていくことになる。気がつけば、身の回りの文章が全てAIが作成したものになっているなんて世界が来るのかもしれない。そうなると、人が書いた文よりもAIが作った文がより良いものとなり、それはつまりAIに人類が敗北することを表しているのだ。スケールが大きいと言われるかもしれないが、そう捉えることができてしまう以上、少なからず考え直さねばならないような気がするのである。

問題はそれだけではない。子どもが書いた文章とAIが作った文章をどうやって見分ければいいのだろうか。先にも述べたとおりなら、優れた文章がAIが作成した文章と言えるだろう。しかし、子どもが書いた文章すべてが優れていないというわけでもないだろう。となると、この優れた文章は子どもが書いたものなのかAIが作ったものなのか判断する根拠がない。AIが作ったと思っていた文が、じつは子どもが書いたものだったなんてことがあれば大事件である。色々な方面から批判という刃が向けられることになるだろう。反対に、子どもが書いた文が実はAIが作った文であったときは、してやられた感を強く持つことになるだろう。大人としてのプライドが傷つくことになりかねない。

AIの発展は、世の中に便利をもたらす。実際、簡単に文章を作ってくれるし、ぱっと読んだところの違和感は感じない。仮に違和感があったとしてもAIである。それはもう時間の問題だ。

たまたま今日、こんな状況に居合わせた。

午後の話である。仕事の研修で沢山の人がホールに集められ、講話を聞いていた。そこで配られた資料の中にアンケートが1つ入っていた。そのアンケートは記述式のもので、講話を聞いて思うことを書くというものだった。

そんなアンケートを見つけると、すぐに書きたくなるのが僕。こうしてnoteを書いているだけあって文章を考えて書くことが好きなのだ。しかし、隣りに座っていた人はスマホを取り出した。そしてAIにそれらしいお題を提示したのだ。1、2秒して長い文が返ってきた。その人は返ってきた文章をそのままアンケートに写し始めた。

なるほど、こんな使い方もできるのか。

使えるものは使っていくスタイルは非常に理解できる。僕自身もその傾向が強いだろう。しかし、僕は想像以上に落胆することになる。

確かにAIに文章を作ってもらうのは、正解にたどり着くためには効率的であろう。しかし、よくよく考えるとAIに任せるということは、文章を考える機会を失っているということなのだ。そしてそれを積み重ねていけば、どんどん文章を考える力が発揮されず衰退していくことになる。まさしく人類がAIに負ける日がやってくるのである。

せめてこうして筆を執ることをしている僕はAIに頼りたくはないなと思う。そして、これからの社会を担っていく子どもたちも、可能な限り自分の力を使ってほしいと願うばかりである。

もちろんAIに頼ることは悪ではない。便利なのは間違いない。だから、どんどん使っていって構わないと思う。でも、AIに頼るということは自分で文章を考える機会を失っていることを忘れてはならない。いつの日か、AIがいなければ困ってしまうときがやってくるかもしれない。そんな日が来ないことを僕はただ祈るのみ。


いいなと思ったら応援しよう!