あわわわわ!
あわわわわ!
川咲 道穂
あるところに働きもせず家事をするわけでもない、さて病弱とはなんのことやら、風邪すらひいたことの無いイヌがいました。
イヌは毎日親の作った料理やおやつを食べるだけ食べて眠るのです。朝は一一時に目を覚まし一六時には夢の中。もちろんこの間にお布団から出ることはありません。
同村のイヌ達は食べることしか頭に無い彼を「他抜気」と呼んでからかうのです。他抜気を世捨てイヌだと崇める者もいましたが、当人は至って怠惰に過ごしているだけなのでした。
ある年の秋口のこと、他抜きの住む村やほかの村を濁流が襲いました。ケガをした者はいませんでしたがいくつかの家と、田畑の大部分がボロボロになってしまったのです。
残念なことに作物を収穫する前でしたから、イヌ達はこのままでは越冬できないと大慌て。ほかの村に分けてもらおうと提案するイヌが大半でしたが、きっとほかの村とて余裕はなかろうと長老が言うのであまり期待はせずお手紙だけ送ってみるのでした。
お手紙が返ってくるまでの数日間、イヌ達は野山へ食べ物を求めて探検を。たしかに野山には木の実やらがたくさん実っていましたが、それ自体とても小さくてお腹いっぱいになるわけでもなく、越冬できるほどの量ではなかったのでみんなガッカリしました。
さてイヌ達がこうして苦労をしている間も他抜気は一日のほとんどを寝て過ごし、床をドシドシするとご飯がもらえると信じていたのです。けれどこの家でも来たる空腹の冬に向けて食糧の節約を始めていたのです。ですから他抜気のご飯もちっぽけなものになってしまって、お腹がずっとグーグー鳴るのでした。
空腹が続くとイライラとするもの。他抜気はまずお布団から出ました。
食べ物が余っていないか部屋の中を嗅ぎまわります。が、普段から残さずペロリと食べてしまう彼の部屋に残り物があるはずもありません。
次に部屋のお外へ出て階下を覗きます。すると母親と父親が「今年は冬を越せないかもしれないね」などと話している声が聞こえました。他抜気は一体どうしたんだろう、と疑問を抱きます。話をよく聞いてみると何やら大水害でこの村の食糧が無くなってしまったということでして、他抜気はあれま! と泡を吹いて壁に倒れかかりました。
ご飯を食べられないと知った他抜気は数日の間寝込んでしまいました。もちろん出される食事は平らげます。天井のシミを美味しそうに眺めながら、他抜気は「なんとかしないといけない」と数分思ったのですが、すぐに眠りに就きました。
村ではお返事が届きまして、はてさて内容は如何に、と村イヌ達が長老宅に押しかけます。
長老は読み上げます。
「我が村も食糧難にて譲ること叶わじ。」
ワオォォォオオオン……と悲哀に満ちた聴衆の声が広がります。
「しかしながらお教えしたきこと次に記す。」
ワオオォォオオン? とどよめきます。
「アワンの国という食物が泡の如く湧き出る国あり。伝来の地図を同封する。」
アワァァァオオオオォォオン!! とみな歓声を挙げて踊り狂いました。すでに林を見つけたかのような喜びように、長老は少し焦っています。
「静粛に! 静粛に! アワンの国といえば遥か西。それに山や海をいくつも越えねばならん。誰が往くのだ。見つからなかったら帰って来られないかもしれないのだぞ。」
くぅーん。くぅーん。誰も肉球を見せません。その後誰も立候補することなく解散となりまして、他抜気の父母も意気消沈の面持ちで帰宅するのでした。
そんな折、父母の不在を狙って台所を漁っていた他抜気は、ふたりに怒られるどころか飽きられられてしまいまして、事の顛末を聞きながらもムシャムシャと食べ続けるので、とうとう父に首根っこをつままれて庭先へ放りだされました。
それならばクイーンを狙ってやりますよ。ああ、食糧一人占めしてやりますよ、他抜気はヒノキの棒切れ持って村を飛び出しました。
川沿いは濁流に呑まれて荒々しい景色。他抜気は別に叙情的な側面を持ち合わせていませんから、あらあら汚れてるねえ、などと呟きながらヒノキの棒をペシペシするのです。ですが他抜気、肝心の地図も方角も知りませんからどうしましょう。くぅうん。とりあえず持ち出したビールをカパッ! ぷはー。さてさて海を目指して歩きましょう。今日も日は照りますし、足元はおぼつきませんが、草木は元気に揺れて、あらあら皆元気そう。
他抜気は村から離れて三百メートル。既に疲れました。もう歩けません。
「だれか助けてよお。」
そう口にしても手を取る者はなく、いつの間にやら背中が泥んこ。あわわわわ! と川に入ってみたはいいものの、土砂混ざり。他抜気はあっという間に泥まみれ!
しょんぼりしてぽつりぽつりこ川べりを歩くのですが、一体いつになったら食糧の山にたどり着くのか分かりません。ヒノキの棒を立てて倒して影の向きは気にせず、川が流れるままに進みます。
そのころ村では「他抜気がいなくなった!? まあ、まあ……」とそれほど話題にも上がらず、越冬検討会議が開催されていましたとさ。
すこし淋しくなってきた他抜気は山に向かって「おーいおーい」と呼びかけてみます。当然返答なしと思いきや、サルとキジみたいな石ころ二つ転がり落ちてきました。他抜気は、変なの、と思いながらこれでも旅のおともになるだろうと考えて胸毛もふもふに入れました。次は川に向かって「おーいおーい」と呼びかけてみます。メダカがチラチラ他抜気を見て去っていきます。「なんだい、つれねえなあ」と他抜気。さきほど拾った二つの石ころを川に向かって投げると、あら不思議! 川面が揺れてポチャンと音立てました。
その日は河川敷で夜空を眺めながら寝転んだ他抜気。
「いつになったらうんまいうんまいご飯を食べられるんだろうね。」
明くる朝、他抜気を起こしたのはサル、キジとメダカの恰好をした犬でした。
「君はなにをしているんだい。こんな川近くで眠っていたら流されちまうよ。それに随分とまぬけそうな顔だ。ほうら、上がるんだ。」
「なにを生意気な! ぼくの名前を知らないのか。」
他抜気の言葉には誰も耳を貸さず、三匹は他抜気のこんまりした尻尾をつまんで歩き始めました。
「一体どこに行くのさ! やだよ! 」
「まあまあ美味しいものを食べさせてやるからさ、おいでよ。」
他抜気が連れてこられたのは小さな洞窟でした。そこにはイヌが一匹寝転んでいてピクリともしないので、他抜気は恐る恐る三匹の背中に隠れながら洞窟に入っていきます。イヌは泥や草葉で汚れきっていて、微かに息をしているか、していないかそれさえ分かりません。
「あ、あの、このイヌさんは……? 」
「よくぞ聞いてくれた。君こそ真の勇士だ。」
サルが言いました。そうして続けて言うのです。
「この御犬殿は野を超え山を越え、最後には海をも越えようとした猛者である。だがアワンの国までの航路は神をも遮る荒波。御犬殿はそれでもアワンの国に辿りつき、村々の惨状を伝えたのだが、行きはよいよい帰りは怖い。御犬殿の丸太は荒波に飲み込まれ、ご自身もこの有様。なんと申したらよいか……。」
「アワンの国のイヌがぼくらの村のことを知っているなら、このまま待っていればいいじゃんね。そしたらご飯が着くまでのんびりだ。」
キジが激昂します。
「なんと情けない! それにアワンの国は食糧を分ける代わりに運搬は手伝えぬと申されたのであるぞ。今一度誰かが海を渡らねばならんのだ。」
「ケチだね。」
他抜気は鋭い視線を感じていました。後ろを向いたら最後、キジ、サル、メダカ犬に噛み殺されてしまうであろう。ここに至りて他抜気も一匹の犬士、荒れ狂う瀬戸の海を前に丸太を抱きしめていました。
ボチャンと丸太を落とします。さらば、と言わんばかりに短い尻尾を三度振って、それには誰も気づかずに、三匹は無事を祈ります。
波の激しさは他抜気を幾度となく丸太から揺り落とそうとします。それでも他抜気は必死にしがみつき、波の和らぐ瞬間を見計らって前足で前進。そのまま前足に付いた水をペロリ、辛い。
けれども漕げど漕げど島影の一つも見えず、夕暮れが近づいてきました。さすがの他抜気も焦りはあったのか、いくら激しかろうと波に抗いながら前進を繰り返しました。
やがて夜になりお月さんを見ていると、村のイヌたちの顔を思い出して、涙がポロリ。お母さんもお父さんもこんなに苦労してご飯を作ってくれていたのかと、感謝してもしても足りないくらいの郷愁に襲われました。
しかし月は照らします。他抜気は疲れた体で海面に映る月を眺めてみようと、丸太にしがみつくと、なんと波が穏やかになっているではありませんか。けれど他抜気、神をも退ける荒波と飲みすぎた海水によって意識は朦朧としています。
他抜気は思い出したことがありました。そう、洞窟に倒れていた御犬殿のことです。
「このままだと御犬殿の無念が晴れぬ。嫌じゃ! 」
他抜気は俄然やる気が湧いてきて、月の出ている合間必死に前足を漕いで漕いで、ようやく島影が見えてきたところで日が昇り、それと同時に他抜気は気を失いました。
その頃、村では「他抜気がおらんと食糧も節約できてよいの。な、お主ら夫婦も楽であろう。」
「……! そのようなことは。私どもは他抜気の親であります。我が子の不幸をどうして祝うことが出来ましょうか。二度と申されますな、その時には貴殿の口が無いものと思え。」
日高く日差しは他抜きの体を真白けにしていました。他抜気は慌てて白いものを舐め取りましたが、それは塩。またも体力を奪われてしまうのでした。
しかし眼前には薄黒い島影が見えるのです。そのとき、ぐぅぅう! と。
「お腹が空いた。お腹が空いたぞ。もう我慢ならぬ。餓死など犬士の恥。必ず腹いっぱい食べねばならぬ。」
そこからの他抜気はイヌが変わったように前足を漕ぎ、後ろ足を伸ばして漕ぎ、もうたどり着く気配があってからは丸太さえ捨て去り、他抜気は誰のためでもなく自身の空腹を満たすためだけに泳ぎました。脳内に焼けたキジ肉の匂いを漂わせながら必死に泳ぎます。
海浜に流れ着いてぐったりしていた他抜気を引きずり、アワンの国領内に届けたのはひとりのおんなのこでした。
「あわわわわ! 背中が痛いよ! どこに連れて行くのさ! 」
「あなたって西の島から来た子でしょう。領主様のもとに連れて行ってあげる。」
他抜気は驚きました。はて、いつの間にたどり着いたのか、そうして生まれてこの方感じたことのない空腹。
領主様は赤い椅子に座って、髭をさすっていました。ボロボロの他抜気が面前に座るなど恐ろしいことです。それでも領主様はニコニコしながら他抜気がやってくるのを待っていました。
塩と毛だらけと泥んこの他抜気が赤い領主様の面前に座りました。
「そち、なにがほしい。聞くところによると丸太さえ持たずに辿り着いたとか。」
「ご飯! 」
「違う。そちの村が食糧難であることはいつか訪れた犬が申しておったわ。わしが聞きたいのはそちへの褒美だ。なにがほしい。」
「ご飯であります。村からここまでくるまでに何も食べてないの! ご飯! 早く。」
そこで良い具合に勘違いしたのは赤毛の領主。
(こないだの犬は少し分けてくれれば良いと言っていたが。しかし、これほどの犬士が空腹のまま村を出ることになるとは……。よほど飢餓に苦しんでいるに違いない。となれば時間の猶予は無かろう。それにしても、その勇姿あっぱれである)
床を汚しながら貪り食らう他抜気と、その様子に顔を歪める小姓たち。それをよそに赤毛の領主はイヌをひとり他抜気の面前に立たせて「その者は農業から食糧生産、あらゆる料理を知り尽くしている。村に連れて帰るがよい。名をオオゲツヒメと申す。何にでも使ってくれ。わしの大切なヒメだ。他抜気殿の勇姿に惚れ申した故、未来永劫の縁を結びたいと思うておるのだ。それにヒメも……。」
他抜気は、うん、と軽く返事をした後で「でもね、ぼくの村ってみんなで助け合って生きているから、誰かを使ってとか使われてとかダメなんだ! それでも良ければ。」
あまりにさわやかな返答に赤毛の領主はさらに惚れ惚れとしました。
そばにいたオオツゲヒメは頬を赤らめてもじもじとしていました。
「あ、でもぼく帰る方法がないんだ。身一つで泳ぐしかないや。」
「心配御無用だ。大切なヒメと勇士の帰還の手助け一つもしないとは名が廃る。船と従者を連れていけ。船には食糧と種をたくさん積んでおく。ほかに要る物があれば申すがよい。」
次の日の朝方、船はアワンの国を出立しました。荒れ狂う波も船には敵いません。他抜気はオオゲツヒメにもふもふされながら船首の風を浴びていました。
村々のある里に着いたのは夕方のこと。浜辺ではキジ、サル、メダカ犬、御犬殿が待っていてお届け物を運ぶ手助けをしてくれました。お母さん、お父さんが待っていたのは他抜気の予想外でした。なんせ捨てられてしまったとばかり思っていたのですから。家族はわんわん抱擁をしました。
その年の冬、村々は一匹の死者も出さず明くる春には彩り豊かな花々が里を包みました。
そうして他抜気は里を守った犬として「狸」と呼ばれるようになりました。
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