椰子の実と南方渡来人説
島崎藤村の「椰子の実」の詩は、
折原信夫の研究結果を題材にして作られたもの、
南洋の椰子の実が、
太平洋沿岸海流に載り日本の太平洋沿岸に打ち寄せられる、
それを見て日本人のルーツを
南方のミクロネシアに起因すると言う説が生じた。
古事記に出て来る卑弥呼を始め
邪馬台国に女王が多かった事は何故か?
稲作が定着する迄の縄文人の主食は魚と貝であった。
南洋の海洋人は海に潜って漁をする。
日本の海女はその名残であろう。
日本海側の石川県迄が海女の北限と言われる。
結局は冬場の海水温の関係からの必然であり、
男より女の方が皮下脂肪の関係で寒さに耐えられる。
縄文時代から大和時代までは、
実質的に一家の稼ぎ頭は女であった。
子供を生み、家庭を支えていたのが女故に
古代では女性が権力を手にした。
アマゾネスは寓話ではなく実存したらしい。
男が狩に出ても、必ず獲物を仕留められるとは限らず
狩猟で生活を維持するのは簡単ではなかった様だ。
川や海での漁をする時は丸太船を使った。
その、丸太舟の材料はタブの木があらゆる面で好都合だった。
しかし、日本には丸太船を造れる程の大木のタブの木は少なく、
代替として使われたのが栗の木だった。
材種は硬く、建築では土台に使われる。
栗の実は保存食料となった。
縄文人は、当時の日本列島は照葉樹林だったが、
栗やクルミを造林して行ったので、
落葉樹林が多くなって、結果的に紅葉は綺麗になった。
元々は、光り輝く葉の照葉樹林の島だった。
常緑樹の椿、ヤツデ、隠れ蓑、アオキ等か生茂っていた。
日本人のルーツは、南方から隼人民族、北方からエスキモーやアイヌ、
大陸から弥生人としてウラルアルタイト族や中国、韓国系の人民が
帰化人として渡って来た様だが、その発端は中国の帝国の滅亡と共に避難した王族や武士達、そしてその家臣や召使い、職工等であった。
天皇家には南ユダ国の王家のエリアの王妃
ヘフジバと長男のスーサナウ、次男のツークヨミが
陸路ではヘフジバとスーサナウの一団がシルクロードを渡って渡来し、海路からはインド洋を経てベトナムとシナを経由してツークヨミの一団が渡来した。
この海洋ルートは、ソロモン王が2年毎にタルシュシュ船をインドや中国方面に派遣していた事から、当時の葦船での航行であったと観られる。
この一団が日本に渡って来た事も古事記と旧約聖書のヨブ記を
照らし合わせると判ってくる筈である。
因みに、日本の古神道に於ける天津神やイザナギ、イザナミ神。
更に、アマテラス、須佐王尊、月読尊を聖書の「ヨブ記」に照らして解説すると、
天津神とはアモツの事で、ヘフジバの父の事で、ヘフジバの名前は、日本書紀には
フジバカマと言う呼称で何度も登場します。次に、スーサナウは素佐鳴尊で音読みが一致するが、ヘブライ語での意味は「荒ぶる馬」の事で、スーサナウの性質を物語っている。
ツークヨミは、月夜見尊で呼称が大体一致する。日本書紀では「海に叫ぶ者」として
描かれ、海路を通じて日本列島に到着した事から、「海に叫ぶ者」と呼ばれました。 ツークヨミは、ヘフジバとスーサナウの一行が無事に日本列島(ヤマト)に到着した事を確認した後に、南ユダ国に帰還しているので、その後の消息は日本書紀には記されていないと言う訳です。ヘフジバとスーサナウの一行は、恐らく、ユダヤ民族の滅亡が目前での逃避行であった事から、恐らく、エホバの神から下された十戒石(アーク)と三種の神器を極秘に日本列島に運び込んだものと思われます。
南ユダ国も北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされた後にローマ帝国に滅ぼされユダヤの王国は世界から消えます。これが紀元前640年頃ですが、不思議にその同じ年に、日本列島に大和朝廷が成立し、初代天皇に神武天皇が即位します。天皇の諡は、その天皇が死後に贈られるので、生前は磐余彦命(イワレビコノミコト)言う名前でした。和読みでは神倭磐余彦命(カム・ヤマト・イワレビコ・ミコト)となり、兄は近畿のヤマト国を攻めた東征での戦いで戦死しています。この辺の経緯などは、何れ、別のブログで整理して発表したいと思います。