学力が高いことは正解ではないが、選択肢は広がる。
社会人になって数年経って思ったことを書こうかなと。
改めて学力が高いことは正解ではないものの
社会での選択肢は広がるなと思った。
■選択肢の多さ
きっかけは社会人になってから様々な方とお会いする機会と
信用という社会構造について考える機会からだ。
様々な方とお会いしていると
地頭の良さ≠学力
ではあるなと思った。
どちらかというと学力は
いかに学んだ学問を正確にアウトプットできるか?に比例しており、
地頭の良さは抽象と具体の行き来や観察力、応用力などの能力に比例する。
ただ、学力の高さの分だけ
良質な機会に恵まれることは多いなと思った。
例えば偏差値の高い大学に行くというだけで
上場企業や人気企業への新卒での就職確率は高くなる。
また大卒と高卒というだけでも
就職できる企業の数も変わるし、転職する企業の数も増える。
学力を図る指標としての偏差値が高い学校に行ったり、高学歴と呼ばれる大学に行くだけでそもそもの社会人スタートを切る会社が変わる。また、大卒というだけで転職活動時に応募できる企業数が増える。
このように学力/偏差値が高いというだけで将来の選択肢が増えるのが現実だ。
ただし、大事なことは選択肢が増えることであって本人の意思決定とは関係がない。
■歴史をみる
そもそも偏差値の歴史から紐解くと
1957年に合格判定を、より科学的、合理的に割り出すために考案された。
まだ使われて100年も経っていないのだ。
それまでは主観的なものでしか測れなかった学力を客観的にしたのだ。
そこから学力の可視化に成功し、今や指標かのように様々なフェーズで使われるようになった。
しかし、今では学力を偏差値だけで測れなくなり、
偏差値だけで受験生を測るのはどうなのか?という話まで出てきている。
今までは直線的なキャリア(復興後でほとんどの企業がスタートアップのようなものだった)ということもあるのと
人口も増加傾向にあり、思考力に頼らなくても労働力を担保できていた。
そのような社会状況も偏差値主義に拍車をかけたのかもしれない。
■学力は必要なのか?
結論、私は必要だと思っている。
リモートワークが主流となっている今の世の中で特に感じるのは
テキストコミュニケーション=国語力
だ。
自分の伝えたいこともノンバーバルコミュニケーションでも
伝えられたのがオフラインでの場だったが、
相手の状況も表情もわからない中で自分のことを伝えるには
どうしても日本語を使用したテキストで細かく客観的に状況とどうしたいのか?を事細かに説明しないといけない。
しかし、テキストコミュニケーションが高くない場合、テキストのラリー数を多くしないといけないため、結果工数がかかってしまう。
このようなことからマネジメントの工数も難易度も高くなってしまい、
その上メンバー側にも負担をかけてしまい、結果双方ともに退職するなどもある。
上記の国語以外でも
数学では変数と定数の定義
社会では歴史と経済学
など理系文系等に関わらず今の仕事で考え方として必要になることが多い。
また、学問以外でも
仕事をしているとどうしても新しい技術や知識と触れる場面が多々ある。
そのような場合でもインプットする方法と技術力を発揮する場面はあるので学力を鍛えるプロセスそのものも会社に出て必要となってくる。
■学力を越えるには?
以上のことから学力は選択肢を広げるとなると必要にはなる。
ともなると学力だけが全てなのか?
これは全てではない。と思っている。
理由としてこれまでは
学力という一つの物差しで測った場合の例だ。
そして学力を越える方法は何か?
私の一つの仮説は
地頭を使った経験、決断回数の多さ
だと思っている。
今の社会ではただ単純に同じような仕事というものはなく、
会社や事業によってエコシステムと呼ばれる生態系の種類が大きくなり、
それぞれの仕事で求められるスキルの変動性が昔に比べると大きくなった。
このことから
「状況を事細かく掴み」
「課題となるイシューを特定し」
「再現性高く」
「解決する方法を作り込めるか?」
という力が求められている。
この力を使った主体的な経験回数が
学力を上回り、必要とされてくる。
■まとめ
改めて
小学校の頃に親に言っていた
「なんで勉強は必要なの?」
に対しての答えはこれなのかなと思う。
誰もがここまで言葉にすることはないし、目前のことが小学生の頃にやっていたことにつながるとは誰も思わないだろう。
「いい大学に入って、有名企業に入れば幸せ」
という言葉も事実いい高校やいい大学に入れば有名企業や人気の企業に入る確率は確かに変わるし高くなる。
ただ、その人生が幸せかどうかは本人次第なので
やはり個々の価値観と向き合って理解しておくことは必要なことではある。