じゃあ僕は君が食べたいと言ったチーズケーキ(僕は苦手な)を注文しよう。

趣味って何なのか。最近、よくわからない。
僕が娯楽として楽しんでいるものは何なのか。最近、よくわからない。
心から楽しめているのだろうか。なんか、それはちょっと違うっていうのはなんとなくわかる。

純粋に楽しめていない。今はありとあらゆるものをインプットに繋ぎ合わせようとしている。
『インプットの奴隷』(ゆる言語学ラジオより)である。
その奴隷になることは、いくらかの快楽を伴い、苦しみと引き換えに知る喜びを与えてくる。
それはあまりに薬物のようで、知的好奇心が刺激させられてしまい、もっと欲としてしまう。

何かに触れるとき、エンターテイメントがその最たる例になっているのだが、それから何かを吸収しないと、という焦燥に駆られる。これが先述で言うところの"苦しみ"。論文を読んでいても、目的のことを知りたくて読んでいて目的にあてはまらない記述の部分でも、いつか役に立つかもしれない、とメモを取る。結果的にメモが膨大になる。

何かをしていないと、自身が空虚になるのではないか、という不安。これも楽しめていない一因だと思う。用途が無いと、僕自身に価値を見いだせない。ドーナツの輪の中みたいに、ドーナツ自身が無いと僕は認識されない。

誰か何かをする、その際に空虚は感じずにいられる、少し前にふと思った。やっぱり人で食べる美味しい食事よりも、君(Unspecified)が美味しそうに食べているのを見ながら食べる方が一入だ。
一人でする作業よりも君と話しながらする方が、満たされている気がする。
Nicht spezifiziertな君とするから楽しめるんだろうね。不特定の君は遠いな。
いや、それならただ君(不特定)を麻酔として利用しているだけか。利己的だ。

君の為に死にたい。君の身代わりとなって死にたい。僕の命と引き換えに君が生き残る。
そしてその0.5秒後には、僕のことなんてキレイさっぱり忘れた君は笑顔で夕飯の買い物に出かける。
なんて楽しいことだ。

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