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国会議員の秘書27(平成3年前編・初の海外随行)

 平成2年12月29日に海部総理は、内閣改造をして野中広務先生は、平成3年の通常国会から衆議院の逓信常任委員会の委員長に就任された。当時の郵政族は、金丸信先生をはじめ小渕恵三先生や参議院議員では岡野裕先生等、錚々たる経世会の幹部の先生方がメンバーにおられた。野中先生は、建設族を目指していたが、金丸先生から「君の同期当選あたりでうちの派閥で郵政の関係をするものがいないから郵政関係を君がやれ」と言われて逓信常任委員会理事をしてから自民党の通信部会長を前年にし、逓信常任委員会委員長と郵政族の道を歩み始めた頃だった。
 通常国会が始まり、この年の2月に山梨県の知事選挙が行われた。金丸先生の推薦された小沢副知事が立候補され出陣式には、与野党の党首クラスが勢揃いするぐらいの布陣で臨まれたが、石和町長をされた天野健氏に敗れてしまった。金丸先生にとっては、山梨県の地元だけでなく、中央政界にとってもこの敗戦は、大きな痛手となった。山梨県の知事選挙が終わってまもなく、日朝友好議員連盟の招待で朝鮮労働党の代表団がこの同じ月に訪日した。朝鮮労働党書記の金容淳氏を団長とした訪日団一行だった。私は、全日空ホテルであった朝鮮労働党訪日歓迎レセプションに野中先生の随行で参加した。この時は、日朝雪解けムードで国交正常化交渉もスムーズに進むのではないか。という感じで終始和やかな雰囲気の懇親会であった。今から考えるとそんなことがあったのかと思うぐらいの日程も組まれている。朝鮮労働党代表団が、海部総理に表敬訪問もしていた。
この時の歓迎レセプションで金容淳書記が挨拶した場面は、今も鮮明に記憶に残っている。
 日朝国交正常化間近という雰囲気も当時は、あった。無事訪日団も一連の行事を終えて帰国した。国会ではこの年の予算も成立し、そうこうしているうちに、金丸事務所には、金容淳書記の部署からFAXで「○○という方が、平壌に来られて金丸先生の紹介で○○という取り引きをしたい。」また「金丸先生から言われたので朝鮮民主主義人民共和国の○○の地域で開発をしたい。」などと頻繁に、「日本から平壌に来て金丸先生の名前で申し出があるが、本当に金丸先生の関係者の方でしょうか。」という問い合わせが何回もあったようである。
 ある日、金丸先生から野中先生が事務所に呼び出され、「野中君、平壌からこのような問い合わせが頻繁にくる。この歳になって向こうの事業などに俺は、関わろうとは思わない。国交正常化することが目的だ。来月、名古屋から民間の訪朝団が直行便で平壌に行くらしい。それに合わせて君が行って金丸という名前を使ってくるものは、全て排除するように言ってきてくれなか?」と言われた。
 野中先生は、金丸先生に「会長、平壌に私が行ってお伝えしてくるのは、仰るとおり承ります。しかし、私、1人では、先方は信用しないでしょう。信吾君(金丸先生の次男で金丸事務所秘書室長)を同行させていただけないでしょうか。」と申し出され、この時点では、野中先生と金丸先生の次男の金丸信吾さん、そしてもう1人参議院議員の永田良雄先生の3人が訪朝されることになっていた。しかし、経緯はわからないが、突然、永田良雄先生が行くことを取りやめられた。私は、野中先生から「うちの事務所は、だいたい秘書は、何らかのかたちで海外に仕事で連れて行っている。山田君、君はまだ、海外に連れて行ってやってないな。永田先生が行けなくなったから、ひとり空いたので君が今回、同行してこいよ。」と言われて私が野中先生の訪朝に随行することになった。先輩秘書たちからは、「国交もないので滅多に行けるところではないところに、親父に連れて行ってもらえるようになってよかったな。」などと言われて私も「海外に初めて随行していける。」と喜んでいた。
 日本から初の直行便で名古屋空港から平壌に行く民間訪朝団ということでマスコミでも話題になった。確かこの時の一行は、300人ぐらいだったと思う。
金丸信吾さんの友人も何人か参加された。
5月18日に名古屋空港から朝鮮民航の飛行機で平壌に向けて飛び立った。
3時間ぐらい飛行して平壌空港に降り立った。着陸すると、だだっ広い滑走路を20分ぐらい飛行機が陸上を滑らせながら二階建てぐらいの小さな空港棟の前に機体を停めた。野中先生と金丸信吾さんと私は、飛行機のタラップの下まで迎えに来ていた朝鮮労働党のメンバーに導かれて空港の外の車寄せのようなところに入管手続きもせずに行った。3人のパスポートを入国手続きに預かるということで迎えに来たひとりに私たちのパスポートを渡した。そして野中先生と金丸信吾さんが迎えに来ていた一台の車に乗り込み、私は、みんなの荷物がまだ出てきていないので空港に残るように言われて荷物が出てくるのを待った。労働党のメンバー3人と私が空港に残ったが、荷物がなかなか出てこずに、民間訪朝団一行もバスに乗り込み平壌空港から出発してしまい。空港に残された私は、パスポートも持っていない状態で向こうの空港に残っているメンバーも日本語を話さないので、大変不安に思っていた。しかし、その素振りを見せると相手に舐められると思っていたので、私は、平静を装いながら堂々としているフリをしていた。ようやく野中先生、金丸信吾さん、私の荷物と日本から持ってきたお土産が空港から出てきたので少し安堵した。これらを私が乗る車に積み込むと車は私を乗せて平壌空港を出発した。
 空港から車が2、3分走ると長閑な田園風景が目に飛び込んできた。牛を使って田んぼを耕したり、畦に羊がいたりして、田んぼや畑にぽっんと農作業をしている人がいる。その人をよく見ると着物のような服装をしているように見えた。私がその時見て感じた風景は、「日本の昔は、こんな感じだったのかな。」というように思った。そうしてそのような風景が空港を出発して30分ぐらいしてもまだまだ続き、住宅地や市街地のような風景が全く見えてこないので「どこに私は、連れて行かれるのだろう。」と不安になった。ようやく街の景色が見えてくるようになり、タワーのようなビルの前に車が到着した。このビルが、平壌に来た外国人専用の高麗ホテルというところであった。車から降りて荷物をおろしていると、高麗ホテルの周辺に座っている人々が私の方を見ていた。その人々の視線がやけに私には、刺さるような気がした。
私が初めて随行して海外に行った経験の始まりである(続く〜)

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