戦争を知らない子供たち
<古い記憶より> こんな事ありました
この曲は私達世代の、もう一つの校歌のようなもの、と言う位置づけではないかと思う。私達はクラスで集まると、必ずこの歌を合唱した。
批判の声もあった曲だけれど、私は私達世代の、少し緩めの反戦歌だったと思ってきた。
シラケ世代とか、三無主義などと言われた私達世代にはピッタリの反戦歌だった。
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三無主義
【60年70年代の若者を指す世代の特徴として言われた。
無関心 無気力 無責任を言う。
無感動 をあげる事も。
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私は、戦後10年ほど過ぎて生まれたので、戦争を知らない子供達だ。と言ってしまえばそれまでだが、戦争を全く知らないわけではない。
幼少期から戦後の混乱期、経済の成長期を通り抜けてきた。
少しずつでも、見聞きした事は、少しは知っている事になるのではないだろうか。ほんの少しに過ぎないとしても。
年齢を重ねるごとに私の記憶は、曖昧になってゆく。記憶違い、勘違いもあるだろう。なので、自分の記憶の整理しながら書いてみようと思う。
戦争を体験した大人達は、私達の周りに両親を含め大勢いた。終戦直後はまだ戦争体験を話すことを躊躇し、また思い出したく無いと考える大人達は多かったのではないかと思う。
戦争の事を話そうと思われるまでには時間が必要だった事だろう。
私達は小学生の頃から、戦争に行かれた先生方等に直接戦争の話を聞いたのだ。
私達も、話を聞ける年齢になっていたのだと思う。
それでも、小学生の私達には、多少のオブラートに包まれたお話しだったと思うけれど。
義足、義手の先生も居られたし、女の先生で夏でも長袖のシャツを着ておられる方も居られた。
先生方からのお話の中でも、一番衝撃を受けたのは、戦争に行かなかったはずの女の先生の火傷の事。
「これは、戦争の時の火傷の後です。見たい人はいつでも見せてあげますよ」
そうお話しされると、クラスの皆んなが手を挙げた。
その火傷の跡を見た時、たじろいだ。
私は一瞬、作り物では無いかと思った。
私の知っている火傷の跡なんかとは、全く違う物だったからだ。
「この火傷の跡は、ケロイドと言うのよ」先生はおっしゃった。
「先生、もう治らないの?」
誰かが聞く。皆んなが知りたい事だった。
「コレが治った跡なのよ。でも、今でも痛む事もあるの」
皆んなの中には、涙を浮かべる者もいた。
「先生、触ってもいい?」
また、別の誰かが聞く。
「いいよ」先生は肩が露わになるほど、袖をまくり上げられた、その火傷の跡は背中まで続いているように見えた。
今度は誰もが黙って、先生の火傷の跡を撫でた。
「先生、可哀想」誰かの声がしたが、思いは皆同じ。
「皆んなにお願いよ。今日見た事を忘れないでね」そう仰っただけで、授業に戻られた先生。
戦争を経験しなかった私達は、運が良かった、幸せな事だ。それは事実。
でも、モヤモヤした物を抱えてきたことも事実。それが何なのか説明するのは難しい。
ただ思う事は、戦争を経験された方々から見ると、私達世代は軟弱でボンヤリ生きているように見えていたのではないだろうか。
平和ボケと言う言葉は私達の頭の上を常に飛び交っていた。
自分達は戦争に駆り出され苦労を重ねたのに、お前達は何もせずに平和を享受しているだけだと言う非難にさらされ続けた。
この歌がテレビで歌われた当初、父は、何でこんな歌を歌うのか分からないと話した。胸に去来するものがあったのだろう。
後に、「こう言う歌が歌われるようになったのは平和な時代になったと言うことなんだなあ」とも話してくれた。
私は数年前から、神様や仏様に自分の事をお願いするのはやめた。願いが叶わない事に絶望したからではない。いや‥、少しはあるかも。
祈るのはただ一つ。世界の平和。
そんな人、増えているそうだ。
祈るだけで良いのか、と言う声も聞こえて来る。それも当然。
それでも、私は祈りたい。
すべての国のすべての人々が、宗教や国益等を超えて世界平和を願って欲しい、目指して欲しい。
戦争は 、人を殺める事、傷つける事、奪う事 。
今では国そのものの存続さえも失われる。
現在の国際状況は、危うい綱渡りをしているようにしか見えない。
その時が来たら地球と運命を共にするさ、と言う、冗談半分の言葉が冗談でなくなる日が訪れないとは誰にも言えない。
これからも世界の平和を願っていく。
私は平和を祈っている、戦争を知らない子供達のひとりなのですから。
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