占いって統計学ですよね
結構信じている私ですが、それこそ古代から行われていただろう、儀式ともいえる行動。まじないやジンクスとは一線を画したいと思いますが、こうこうこういう人がいる。生れや出生、その他諸々を調べてみたらこういう分類になった、そこから派生したのが占いの類だと思うのです。優秀な経営者やアスリート等も人によってはお抱えの占い師がいるとかいないとか。
彼らのいうこところの”人事を尽くして天命を待つ”だと思うのです。私が占いを信じる根本的な理由は、人はやはり自然の一部です。そして、例えば秋植えの球根を春に植えても花開かないように、この人、花開いてもおかしくない人物なのに何故開かないのだろうと疑問に思った人がいて、時期の問題ではないかと考えて研究、発展したのが占いではないかと考えております。厄年等も全てその類。
占いは統計学ではないかと。さすれば立派な科学的根拠(笑)
風俗業がそうであるように、古代から続いている事柄です。必要でなければ淘汰され、やがて消滅していくはずです。未だに続いているということは、どこかで誰かが必要としているからこそ、残っていると思います。そこには善悪とかはありません。
私自身はやや頼りすぎなきらいは否めませんが、それはさておき、某占いによると私に”孤独運”ついてます。文字通り孤独になりやすい、ということ。例えば早くに両親を失くす、等。なんか当たっているな、と思います。
両親はいます。現在も。ただ、今、音信不通状態です。どちらかというと私から通信断っている状態。
そのあたりは追々書く事もあるかもしれませんけれど、今現在の私の日常生活において、過去の繋がりからの人間関係は皆無です。皆ここ十年くらいで構築した人間関係です。
私の只今の人間関係は明らかにある時期を堺に一線を画する事が出来るのです。
それについて寂しいとか、そういうことを綴る気ではないです。ただ、まんざら占いは当てずっぽうではないのかも、と思う事柄を書いているだけの回です。
主人も今でこそある話かもしれませんが、ネットのお見合いサイトで知り合った人で、過去に全くの接点はありません。それこそ鬱病になる前の私だったらおおよそ結婚相手から外される素養の人です。
今現在、たまに遊びにく友達もすべて勤務先のパートさん仲間。強いていえばファンクラブ入っているあるアーティストのライヴに一緒に行く人は高校からの友人ですが、これは先にアーティスト好きが先にあり、たまたま高校時代の友人が同じアーティストが好きだったということが後でわかったのです。
昔、芝居をかじっていた時期があるのですが、その時の知り合いは今、誰とも連絡取り合ってはいません。
又、とある占いに”兎年生まれの人はどんな関係であれ、最高のパートナーとなる”とあったのですが、これも当たっていると感じます。
(自己診断)鬱病を患い、毎日死ぬ事しか考えてなかった私の自殺願望を思い留ませてくれたのは他ならぬ兎年生まれの人でしたから。
····ただし、相手はもうこの世に存在しない人です。遥か昔30年以上前に交通事故で亡くなった、実兄でしたから。
実兄と、それを取り巻く周囲のあれこれに思いを巡らせた時に、私は死ぬのをやめようと思ったのです。30年以上前に亡くなった人に私は自殺を思い留まさせられた、と言う事です。又これは別の機会に。
芝居の師匠も2年前に亡くなっていた事がわかりました。
孤独とは、自分に影響を与える人、あるいは与えてくれた人との交流がなくなる事です。
小学校低学年時はイジメに合っていました。
両親、特に母親はおおよそ母親らしいことはしない、いうなれば愚妻で、軽いネグレクトでした。だからいじめられていたことそのものには何ら関心は示さなかったと思ってます。そんな、私がこのいじめに合っていた時に最大の、そしてその頃の私のメンタルに大変好影響を与えてくれた唯一無二の親友も、3年前に、亡くなりました。
一番真摯になってくれた担任の先生は臨時で、一年で故郷に帰られました。(実はこの先生、鬱病の回復期の一番自殺率が高いと言われる時期に再開した運命の人でもあります)
とある占いでは、私と相性のいい家族で一番は、この亡くなってしまった兄で、ついで弟、母親は△、父及び姉は☓です。なんかわかるなという気がします。
孤独死上等!子供もいませんし、順当にいけば主人が先に亡くなります。一人でいるのはさほど苦ではなく、逆に一日のうち一人でいる時間がたとえ10分でもないとストレス溜まるのが私で、孤独というものを克服しているとは思っておりますが、私の人生のテーマであること間違いないと思っているところです。